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私の原爆記 
斗桝 良江(とます よしえ) 
性別 女性  被爆時年齢 30歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 教師 
被爆時所属 比治山国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

(前略)

●迷子収容所の発足

八日の午後であった。
市の社会課長さんが子どもを一人だいて来られた。

「今日から、此の学校を迷子の収容所にするから、子どもを預ってもらいたい。」との話なのである。

見れば二歳くらいの女の子、すっぱだかにワイシャツをひっかけて抱いて居られる。この子をだき取ったものの、私達は顔を見合せて途方にくれた。

当時、比治山国民学校の職員の大半は疎開地にあり、後は女子職員がほとんどであった。

校長先生の長男が行方不明、教頭先生の長女、谷村先生のお父さん、久保先生のお母さん、米重先生の主人、藤川先生の弟さんが死亡されていた。

梶谷先生は疎開先から帰っていて罹災されてたということであった。狩山先生は顔をけがして居られた。

だから、家族すべて無事故というのは、高山先生と山崎先生と私の三人だけであった。

私達は非常時なのであるから、出来るだけのことはせねばならぬと、各自の心に誓ったのであった。

この子は、名前を聞いても答えない。非常におびえていて、絶対にひざからおりようとしない。おろせば泣きわめいてすがりつくので、三人かわるがわるだっこしていなければならなかった。

何といってもはだかではどうにもならないので、私は末広町の家へ帰って服とおしめを取って来た。

それから学校裏の仮住居へ、今日から迷子の世話をするようになったので、夜も帰れない旨を伝え、子供の世話を母に頼んだ。

まだ母を離れて寝たことのないわが子、きっとおばあちゃんを困らせることだろうと心配だがいたし方がない。やっとねかしつけてそっとぬけ出す。学校への足は重い。

学校では、高山先生と山崎先生が、代る代るだっこして、私を待ちかねて居られた。日はとっくに暮れていた。

今夜は運動場で夜を明かそうということになった。校長先生がゴザを持って来て、イモの植えてある側にしき、ゴロリとねて星空を眺めて居られる。きっと行方不明のご長男の事を考えておられるのであろう。

空襲警報が出るたびに、待避壕へ走り、ろくに眠れない一夜を過ごした。

(中略)

●尋ね人

此所が迷子の収容所だということが世間に広まると、毎日のように、我が子はいないか孫はいないかと訪れる人が絶えなかった。

「あ、いたいた。」と走りよっていだきあい、喜び勇んで帰って行く、うれしそうな様子にも幾度か出合った。その反対に、待てど暮らせど迎えに来てもらえない子どもの表情は、日がたつにつれて暗くなっていった。

「もう死んだに違いないと思って葬式をすませたのですが、生きていてこんなうれしいことはありません。ほんとうにお世話になりました。」と、心から礼を言って帰って行かれる姿を見送って、ああよかったと思うと同時に、後に残された子どもがあわれで、一日も早く親子対面が出来るよう祈らずにはおられなかった。

●入浴

子どもらは着たきりすずめの垢もぶれであった。何とかして入浴をと思って、考えついたのが給食用の桶であった。

釜で湯をわかして桶に入れ、ほどよい温度にして、子どもを一人ずつ入れて体を洗った。

湯はたちまちどす黒く汚れてしまった。新しい湯を入れては次々と洗っていった。中には気持がいいといって出ないとがんばる子もいた。

この方法も厄介なので、高山先生のお家の風呂を借りることになった。

先生の家は学校の前にあった。一人でよう入らない子は、先生が入って一人ずつ洗ってやられた。

それで、とうとう先生は子どもの皮膚病をもらってしまわれた。

(中略)

●食事

終戦までは、鉄道の徴用工の方が食事を作ってくださったが、それ以後は私らの手でやらねばならなかった。

子どもらは、殆どが下痢しているので、おかゆを炊いた。おかずは、梅干、味噌、運動場に作られたいも、いものはっぱ、などであった。毎日のように、近所を歩き廻って、農家で野菜をわけてもらって来た。

カッちゃんという子がいて、れんこんを煮てやると、「せんせい、カッちゃん、デンコンすき、デンコンすき。」と言ってついて来た。

こうりゃんの配給があった時は、うすを借りて来て粉にし、だんご汁にして与えた。

時には五目めしや、ばらずしなどして、子ども達をなぐさめてやった。

おやつには、僅かばかりの牛乳や乾パンなどの配給があった。

●衣服

古着がほとんどであった。子どもにあう物ばかりはなかった。ズボンのすそや袖口を折りまげて子どもにあうようにして着せた。

ある婦人の方から、新調のネルの着物十枚を寄贈していただいた時は感謝で一ぱいだった。子どもらも新しい着物に手を通した時は、さすがにうれしそうであった。

ふとんはなく、軍隊からの払下げの毛布を寝具とした。

●配給物

終戦後、数日たってからと思う。毎日何の配給があるかわからないから、一度は市役所へ来てみるようにとのことである。

これも私達にとってつらい仕事であった。

配給物があろうがなかろうが、毎日のように大八車をひいて市役所へ通った。大八車はタイヤでなく、金のついた重たい車輪で曳くとガラガラと大きな音がした。

行けども行けども、炎天の下に廃虚の街はつづいて、出会う人はほとんどなかった。くずれた瓦礫の下に、人の骨が見えたりした。ある時は黒人兵がいたといって恐れ、誰もこの役をきらった。

結局、若い山崎先生や私が行くことになった。配給物は、ミルク、味噌、しょうゆ、塩、梅干、乾パン、その他毛布、シーツなど軍隊の払下げ物資であった。

(中略)

●戦災児育成所開設

五日市戦災児育成所は、元農事試験場であった所を、山下義信先生が、戦災によって迷児あるいは孤児となった者を育成する場所として開設されたものである。昭和二十年十二月の頃である。

子どもを収容するには十分の建物があり、小高いところに小さいお寺のような建物(後に童心寺と名づけられた)があった。その丘にはびわの木が植えられていた。そこからは海が見え、風光明媚、気候はよく、子どもらを育成するには絶好の環境であった。

ここは幟町国民学校の分教場として、子どもらの教育方面を担当することになった。

一、二年、三、四年、五、六年の複式授業であった。

教室は子どもらの寝室が早がわりした。第一児童館の第二号室が一年生の教室、食堂が三、四年生の教室、第二児童館の二階が五、六年生の教室であった。

五、六年生が主人(斗桝正)、三、四年生が藤原先生、一、二年生が私の担当であった。

一、二年生合わせて五、六人しかいなかったが、これを部屋に集めることからしてむずかしかった。風の中の風船とでも例えようか。

子どもらの気持は、何かうつろでフワフワしていた。おしっこへ行ったら、なかなか戻って来なかった。私の取扱いも下手だったと思うが、何をやらしても根気がなく、すぐあきてしまった。何かをしたいという気力は、全然といってよいほどなかった。

これらの子どもに勉強させようとする事は、水を飲みたがらない馬に、むりやり水を飲ませようとすることだった。

だからその歩みはなめくじよりもおそく、毎日ため息の連続だった。

(中略)

●しらみ退治

比治山の収容所から持って来たのか、よくわからないが、しらみが子どもたちの間で横行した。

その頃、まだDDTはなく、その撲滅に手をやいた。そこで子ども達の衣服を全部ぬがせてふろ釜に入れ、煮沸することにした。ところが白いものも、黒いものも一緒に煮たから大変だった。

きれいな女の子のセーターも、見るかげもないきたないものとなり、私達は「ごめんね、ごめんね」と子どもたちにあやまった。

●お骨拾い

四月のある日、子ども達はおのおの自分の家の焼跡を訪ねることになった。だいたい地域別に三班に分れた。

私達は、井上みちこ、大黒美都子、茂子姉妹を伴って出かけた。町名を忘れてしまったが、どこまでも瓦礫の町がつづいて、住む人はごく僅かだった。ところどころ水道の水が噴き出していた。道はだいぶん片づいていたので、さすがに子どもたちはよくおぼえていた。

「この小路を入って何軒目だったから、ああここです。ここです。」と、なつかしそうにあたりを見廻し、早速お骨はないかと探しはじめた。井上さんは、お父さんと二人暮しであった。お骨が出て来た。ねまきの焼け残りも出て来たのでお父さんの遺骨とわかった。大黒さんの方もすぐ見つかった。

用意して来た箱に入れた。焼跡に花を供え、みんなで拝んでから、そこを後にした。

●脱走

籠の鳥は籠の中に居さえすれば、餌も水も与えられ、危険にさらされることもない。しかし、それに満足せず、外はもっと自由な世界があると思ってとび出す。

子どもらもそんな気持なのか、脱走者が相ついで出た。居ないということは食事の時にわかった。わかるとすぐ職員が宮島方面と、広島方面の二手に別れて探しにいった。運よく見つかって、連れて帰ることもあったが、殆どは行方がわからなかった。

ある時は、二人で夜の脱走を計画し、事務所の金や倉庫の食料品などを持出したこともあった。

●個別指導

戦争によって家を失い、両親を失った子どもらの心の中には、大きな空洞が出来、他からどんな手がさしのべられても、容易にみたすことの出来ないものであった。

向学心など要求するさえ苛酷と思われた。しかし、私達はどうかして一日も早く立直ってくれることを望んだ。どうしたら子どもらをなぐさめることが出来るか、どうしたら勉強しようとする意欲が湧くだろうかと、毎夜のように職員会議が続いた。

そして、主人の発案によって、朗読、漢字、計算力のテストを、随時個人別に行なうこととした。朗読は自分で練習して自信がついたら、好きな時やって来て、先生に聞いてもらう。良かったら合格の印を押してもらい、次に進む。

漢字、計算テストは、何段階にも分けてテスト用紙が印刷してあって、程度の低いものからやって、出来ればいくらでも上のテストを受けられるようにした。

これは、割合、子どもも競争心をあおったようで、よろこんでテストを受けていた。

(後略)

※ この体験記は、一部を抜粋しています。
出典 『私の原爆記』斗桝正発行 平成3年(1991年)

 

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