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私の原爆体験記 
鳥家 守(とや まもる) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1998年 
被爆場所 広島鉄道局広島鉄道教習所(広島市仁保町青崎[現:広島市南区(青崎)]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 広島鉄道教習所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は、昭和二十年四月に広島市仁保町の広島鉄道教習所に入所いたしました。当時十六才でした。

昭和二十年といえば、物資は不足し、食糧事情は極度に悪くなり、戦争は暗い様相を呈していたが、一億国民皆兵で、一人になるまで戦い抜く決意で、朝から晩まで、血眼になって、授業に、軍事教練に、横穴の防空壕掘りに、また、構内の空地を開墾して南瓜、甘藷をはじめ、その他の野菜作りに連日厳しく「勝つまでは」又「撃ちてし止まん」の合言葉に、こうりゃん又は大豆飯を小さな湯呑み茶碗にすれすれ一杯を頂いて鞭ち打たれていました。

私達が入所してからは、毎日のように、日本本土の何処かで、一乃至二ヶ所は爆撃に遭いそして、東京、大阪をはじめ大都市は潰滅状態になっていた。六月二十九日には、岡山市も激しい空襲を受け街の大半は焼野ヶ原となりました。

しかし、中四国地方の中核都市の広島市は全く無傷であり、今日は広島市の順番でと待っていたのではないが、皆が不思議に思う程空襲を受けなかった。

敵の飛行機は(B29、艦載機、グラマン戦闘機)連日連夜、私達の上空をゆうゆうと飛行して、友軍機は全く手の出しようがなく空襲警報が発令されるとその都度防空壕に避難していた。

ところが、八月六日には朝五時半頃(はっきり時間はおぼえていない)警戒警報が発令にならず、いきなり空襲警報のサイレンが鳴ったので、全員飛び起きて、身仕度して教習所裏の横穴防空壕に避難した。

空襲警報は、警戒警報が発令されて、敵機の襲来方向の状態をみて空襲警報が発令される仕組になっているのに当日はどうしたことか変だなあと云いながら避難していた。

後から分ったことであるが、早朝の空襲は原爆投下の偵察飛行であったそうである。

およそ四十分か一時間足らずで、空襲警報は解除になり、一旦寮に引揚げて、いつものように、朝の掃除や洗顔、また授業に行く準備をして遅れの朝食に八時過ぎから全員食堂に入り、八時十分過ぎから長い食前の言葉を全員で合唱して「頂きます」と言ったとたん、極く早い者で一口、普通の者は箸を持つか、持たないうちに、私は少しの食事であるのでゆっくりと食べようと思っておもむろに箸をとろうとしたとたん、南側の上の方で白いような、青いような、なんとも言葉で表わせないような一瞬目がくらむようなするどい光がみえたと同時に「ドカーン」と大きな爆弾が近くに落ちたような音がした。

私は南側の窓際に面した食卓に居たので、その爆発音と同時に窓ガラスは所々破損し、天井からは埃りが落ちるなどで、食堂の建物はぐらぐらと地震のように揺れ動いた。

みんな一斉に人間の本能が働いて、食卓の下にもぐる者、早い者は戸外に出て防空壕に飛込んでいる者等で大変な騒ぎとなった。私は音と同時頃食卓の下に知らずうちにもぐっていた。その後教官から横穴の防空壕に全員避難するよう命令があって避難した。

それから少ししてから空襲警報が発令になったが敵の飛行機はみえず何事もないようなので、おもむろに誰れ彼れとなく校庭にある防空壕に避難するようになった。防空壕の中はすし詰めの状態であるので、汗と体臭でむんむんとなんともいえない暑さと体臭であった。

私は、暑いので汗が顔に流れていると思っていたところ、同僚が「鳥家の顔から血が出ているぞ」と教えて呉れたので手でさわってみると、右耳下から可成り血が出ていた。これは食堂で窓側にいたのでガラスの破片が飛来して傷ついたものであった。咄嗟のことでそれまでは何とも感じなかったが血をみてから痛みを感じ出したが手当をすることもできずハンカチで傷口を押さえていたところいつの間にか血は止まった。それ以後は手当もせずそのまま放っていた。今でも少し傷あとが残っている。

それからしばらくしてから、教官からの指示で、再び横穴の防空壕に移動したが、この附近は何事もないようなのに一向に空襲警報が解除にならない。誰も不思議に思っていた。

それから二時間位去った頃と思うが、誰れからの指示も命令もないのに、一人二人と次々に校庭に出るようになって、殆ど全員が校庭に出た頃西の方に黒い煙がもくもくと立ち上り、これがいわゆる後に云う「きのこ雲」であった。みんなこれをみて、大変な大爆発で、あれは広島駅附近が大火災になっていると言い出して、応援もいるのではなかろうかと異口同音に言いだしていた。

それから、当直の教官と二年生の斥候担当が公用車を使って、偵察に行ったが、向洋駅から少し西に行った所から目茶苦茶に家が将棋倒しのように倒れて、人も車も通れる状態でないので折返し帰って来た。

このとき、誰が言うことなくこれは米国が大型爆弾を投下したものではないかと言い出した。

そして、西の方をみると相変らず黒い煙がもくもくと立ち上り大火災が長時間続いた。

私達は、敵機も来ないようなので、横穴に入ったり出たりして周囲の状況をみる位であり、情報は一切入らず、戦戦兢兢としているのみで、空襲警報は朝から発令のまま夜遅くまで解除にならなかったように思う。

このような状況の中で、再び大型爆弾が投下されるかも知れないので殆ど一日中横穴の防空壕に入ったり出たりして避難を続けていたが、朝食もとっていないし昼食もなく腹はペコペコに空いて動くのもおっくうになっていた。十四時頃と思うが、青大豆の炒ったのを、片手の平に少量ずつ食事の代りとして配給があったが、それ位では腹の足しにはならないが食べないよりはましで、水を飲んで腹でふくらますようにして一時腹の虫をおさえた程度であった。

教官からの話で、今晩は広島の街は徹底的に爆撃があるかも知れないのでそのつもりで万全の防備体制をとるよう指示を受けた。

後で分ったことであるが、向洋駅から西へ約二キロメートル程からは見渡す限りの焼野ヶ原と化しているので再び爆撃に遭うようなことはなかったが、当局からの情報が全く入らないのでそれぞれ思い付きの伝達がなされていた。

午前中は暑い快晴であったが、午後に入り雨が降り出し防空壕に入って待機していたが雨は一時間余りで止んだように思うが、後で分ったことであるがこれが黒い放射能を含んだ雨であった。

このような状況のもとで、一日中防空壕に入ったり出たりで、腹はペコペコで十九時過ぎに普段より少し少ない量の夕食が全員に与えられ、食事後もろくに休むことなく、いつ空襲に遭うか分らないので、夜半まで暗い小さな豆電球の横穴において避難していた。

夜に入って、防空壕から出てみると、教習所の裏に山裾に添った市道を血みどろになった者や、リヤカーに傷付いて動けない者等が続々と避難しはじめたので広島の街は大火災は起きているがどの程度か分らないがあの負傷者をみただけでも大変な被害であったことと想像しあった。被害情報は一日中全く入っていない。

零時頃になって教官からの指令で、空襲もないようなので、防空壕からの避難を解除して各自の寮に帰りいつでも出動できる体勢で休息するよう伝達があり各クラス毎に点呼を行なって寮に帰って休んだ。

情報は相変らず入らず、翌日からは当面いつもと同じように、いつ空襲があるかも知れないので警戒を更に厳しくして、授業に教練に野菜作りに死にもの狂いで励んだ。

それから数日去ってから、街の巷においてはあの大きな一ヶの爆弾は「ピカット光ってドカーン」と爆発したので「ピカドン」と誰れが云うとなく名付けられて「ピカドン」の新語で話題がもちきりとなった。

教習所の裏山に、四、五百メートル位離れていると思われる所に、市営らしき簡単な火葬場があり、六日以降連日連夜火葬が行なわれて、その臭いが飛んで来て連日連夜悩まされた。

原爆投下三日後から、広島駅も広島操車場も職員が殆ど死傷しているので、駅業務がマヒしているので教習所普通部の二年生と専修部の古参の生徒はそれぞれの専門職場に助勤の指令があって出動した。私達一年生は助勤はなく、広島駅周辺の復旧作業の動員が発令されて、全員出動する。三、四名が一組になって班を編成して、教習所から握り飯二ヶに漬物二きれ弁当を貰って三日間程従事した。

私達の作業は、道路及び通路の瓦礫を取除いて、人や車が通行できるようにする作業で直接死体の処置はなかったが、作業中死体はあちこちに転がっており、また駅前の市内電車が満員の乗客を乗せたまま車両もろとも黒焦げになって折り重なって死んでいた。あの惨状はなんともいいようのない有様であった。その他太田川の河原では水を求めに来た者が川原でばたばたと倒れて、場所によっては足の踏場のない程の死体で、手足と腹がポンポンに腫れて、火傷のところは腐ってウジ虫がわいているものもあって、目を覆うあり様であった。

私達ではないが、軍関係の復旧要員らしき者は死体をトラックに山程乗せて、何の誰れやら全く分らず、山積みして一括火葬にしていた。

焼け後のあちこちでは、身元を捜しに瓦礫の山を掘って死体を捜し求めている者もあって、大変な惨状であった。

私達は教習所のトラックに乗せられて、向洋駅と広島駅の中間位の所までしか車が通れないので、そこから広島駅前まで徒歩で行くのであった。

最初に広島駅に着いたとき、建屋のみは残っていたが、黒く焼け傾いて無残な状態でまた駅から西及び南方面は、二、三ヶ所鉄筋の建物が残っているのみで見渡す限り焼野ヶ原と化して、まだ各所で煙がくすぶっていた。このような状態で市内に居合せた者は殆ど死亡したように話を聞いた。

この状態をみただけでも、日本は戦争を続けて本土決戦で勝てるのかと、口には出せないが一抹の疑問を抱いたが、教習所では一人になるまで戦うのだと厳しく教えられているので気を強く持って復旧作業に腹ペコペコにして励げんだ。

三、四日で復旧作業の動員は解除されて、次は本土決戦に備えて一段と規律が厳しくなり、自給自足の体制で授業は程々で竹槍訓練をはじめ、野菜作りと他に食べられるものは野や山に出かけて捜し求めて食糧にしていた。また一方、塩の自家製塩といって、海田市の南浜辺まで四キロメートル余りあると思われる所まで水汲桶を二人一組で担いで教習所の構内の片隅に砂を敷いてそれに海水を入れて塩作りを始めたが、塩の出来あがりをみないうちに終戦を迎えて中止した。

このような死に物狂いの厳しい中で、八月十五日の終戦を迎えたが、食糧事情は相変らず悪く毎日が腹ペコペコである。月日の記憶がないが、八月二十五日頃と思うが、私は広島には、全く親戚も知人もないのに突然夕方「鳥家君面会です」と守衛室から連絡があって、私は人違いか半信半疑で守衛室に行ってみると、私の一番上の兄が、地下足袋にゲートルを付けていわゆる軍隊姿でリュックサックを背に付けて待っているので、私はいきなり「兄さん何しに来たの」と言うと兄は「何しにとは何事か」と怒鳴り返され、それから冷静をとりもどしてから「おまえ生きていたのか、生きていてよかったなあ」と喜んで呉れた。

何故葉書の一枚位書けなかったのかと注意がましく叱られたが、私は原爆投下の翌日葉書を書いて、広島は大変であったが、私は無事でいる事のみ簡単な文で父あてに投函して、また、三、四日去ってから分る範囲の事を手紙で知らせていた。その後も概ね一週間に一度位は様子を知らせていたので、まさか兄が尋ねて来るとは夢にも思わなかった。

後で分ったことであるが、広島は、郵便業務が相当期間ストップして全く届いていなかった。そして一ヶ月余り去ってから相当数がまとめて届いたそうである。

私の郷里では、ラジオや新聞等では、市内に住んでいたものは一人残らず死亡しているとの報道で、兄は何か遺品でもあれば持ち帰って墓に祀るといって尋ねて来たもので、元気な顔をみて安心して折返し、夜行列車を乗り継いで勝間田駅に向って帰った。

その後(はっきりした月日の記憶がないが)九月中旬頃と思うが、生徒が、一人二人と次々に激しい下痢を患いだして、私もその一人となり僅かの間に全生徒が下痢を患いだして便所はいつも満員で、便所に行くのが待ちきれず校庭の中庭やその他の空地に、たれ流しをせざるを得なく、それが、昼夜の別なく続き教室や寮附近の中庭や空地は糞だらけで足の踏場のない程不潔極まる状態になった。

その下痢の激しい最中に大雨に見舞れ教習所周辺は水浸しとなって、便所も中庭も浸水して大変なことになったが、大雨の中を外に飛出して用便をすることもあり大変苦痛が続いた。

この雨は、四、五日位降り続いたと思うが、下痢患者は一向に衰える気配はなく、次々に自宅療養を願い出て、自宅に帰省するものが続出したので教習所当局も遂に授業ができなくなり、一時授業を打切って、全員帰省させることになって、全員が自宅に引上げた。

この下痢は、これまでに経験したことのない程の激しくて、教室で授業していても急に催し、教官の許しを得る暇もない程で教室を飛び出して便所が空いていれば入るが、満員ならば室外にたれ流しであった。このような状態が五日位続いたと思うが、体は一日一日と衰弱して、気力も体力も全くなくなっていた。

そのような状態の中で、広島から、山陽本線で岡山、津山線経由で勝間田まで帰るのであるが、列車は復員の兵隊で身動きもできない寿司詰め状態の中で立ちずくめで、用便を催したらどうしようかとそれのみ心配していたが、福山近くまで辛抱できて、人をかきわけかきわけて便所に入ることができた。それからは岡山駅の乗換と津山駅の乗換の際に用便して、九時間余りで勝間田駅に着いた。

勝間田駅から私方まで、約六キロメートルを徒歩で帰るのでまたこれが一難儀で、体は衰弱して歩く気力すらない状態であるが他の交通手段がないので、手提のバッグ一ヶを提げてぶらぶらと歩き、途中、山や田圃の畦に飛び込んで三回程用便をして、三時間余りかけて自宅にたどり着いた。

後から聞いたことであるが、近所の方に三人程出遭ったが、死人がぶらぶら歩いていたとのことで、「守ちゃんとは全く分らなかった」何処の誰か知れないが、半分死人のような者がぶらぶら歩いていたと話題になる程であった。

私方では、食事療養と村内の開業医に通院して下痢は一ヶ月足ずで止まったが、体力は年末頃まで回復せず、寝たり起きたりで家の近くでぶらぶらする位であった。

年も明けて、体力も回復したので、なんとか鉄道に復帰しなければと思っていたが、家族の者をはじめ親戚、知人から再び広島に行くとまた病気が再発して、今度は死んでしまうと言われたり、広島は今後未来永劫に至るまで人間は勿論、ねずみ一匹たりとも住めずまた一木一草に至るまで育たないと流言飛語がちまたで飛び交い、私も折角ここまで元気になり一命を取り戻したので遂に教習所を退所することを願い出て、昭和二十一年三月末を持って病気退職した。

私はどうしても鉄道に未練があり、昭和二十二年一月に上司のお世話になり、勝間田駅に再就職して、心を新たにして再出発して、入社時の念願であった、金筋の助役及び駅長を務めることができて、昭和五十九年四月に五十五才の定年まで務めることができたが、その間、慢性胃炎と胃潰瘍は度々発症している。これは、放射能の影響ではなかろうかと思っている。

原爆の恐しさと、戦争を知らない方々に拙ない文章ですが、読んで頂ければ幸いと思いペンをとりました次第です。

最後に原爆のために他界された方々に対して心からご冥福をお祈り申し上げます。
                                               合掌 終

 

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