突然、なんの前触もなく稲妻のような閃光が走った。実習中の練習生達がはっとして一様に窓の方を向いたその瞬間地軸を揺す大爆発が起り激しい振動が建物を大揺れに。屋外に飛出した時目に映ったのは南西の夏空を覆った巨大な茸雲でした。時に昭和二〇年八月六日午前八時一五分。私達は賀茂海軍衛生学校第八期普通科衛生術練習生として在校中でした。翌七日夕方我が三一分隊に広島市原爆被爆者救護の出動命令あり。必要な衛生資材をトラック二台に積み隊員約七〇名八日早朝衛生学校を出発した。呉市を過ぎたあたり馬車を引いた馬が倒れ辺り一面腸が露出していた。家族と思われる人達が三人五人とあちらこちらの防火用水桶に折重って死んで居る。防空壕の入口には黒く焼けただれた死体が重り合って、異様な悪臭を放ち手の施し様もない有様であった。午前八時頃、広島市の東練兵場に到着したがそこには陸軍の救護隊が先着して活動が実施されており当分隊は十日市筋を通り、昼近く、横川駅そばの西警察署前に到着した。そこに、賀茂海軍衛生学校から派遣された軍医見習医官の学生と交代して救護活動を行う事となった。
午後隊の職務分担が示され、受入、消毒、治療、看護、死体処理、管理等の班で、適宜交代任務で救護活動がされた。当時使用された薬品は非常に粗末なもので、ヨーチン、マーキュロ、オキシドール。リバノール等数種類の軟膏が主な外用薬で症状によって使い分けていた。
量の限られた治療資材は焼け石に水の様に底をつき代用として海水を利用。約四倍に希釈して旗地用の布を大きく切ってこの液に浸し、わかめ状の患部を切取りガラスの破片を抜いて巻き付ける位の気休め的治療しか出来なかった。回復不能と診断された者にはこの手が使用され正規の薬品は回復見込と診断された者にのみ。貴重品である鎮痛剤や消炎剤、強心剤等の注射液は軍医の指示により使用されると云ふ現況でした。
やがて治療や看護の甲斐もなく死亡者が続出、警防団や陸、海軍の兵隊達によって、トラック、担架、焼け残ったトタン板等に乗せられ次々と荼毘に付され骨は大きな木箱や蓆に包まれトラックで何処かへ運ばれて行ったのです。夕陽の落ちた広場には収容された数百人が蓆の上に寝され海水を浸した布の交換が行れて居た。どの人も水を欲しがり水を呉れ“早く早く”とうめき声がせき立て私達は水を配って人々の間を走り回りました。声を出す気力もなく力の弱った手で足を掴む者も多く居ました。
各方面から送られた炊出しを配食し食器が足りず焼跡から使へそうな物をかき集めて腐敗臭の強くなった握り飯を砕いて水をかけ口に運んでやっても殆どの者は一口か二口食べるだけで水だけを欲しがって居た。夜に入って救護所の灯を頼り孤児達が泣きながら、父母、兄弟の名を呼びながら力なく倒れる者も多かった。握り飯や乾パン、水を与へ治療しても何時迄も肉親を呼び泣き続け次第に疲れ一人二人と泣寝入りして行く様は何とも哀れでならなかった。今でもあの夜の出来事が耳に瞼に蘇ってなりません。
救護のため送られてくる食物は暑さのため殆ど腐敗して食べる事が出来ず毎食乾パンと水だけで昨日同様活動を繰返した。夕方になり帰校命令が出され、同所を離れる事となり後続の部隊と交代して午後八時頃横川駅から乗車。西条駅下車で衛生学校まで十数キロを小雨ふる夜道を帰校したのは夜中の十二時頃でした。夜食に出された雑炊は何にも勝るおいしさであった。終りに広島市民の原爆によって犠牲となられた多くの方々、並に救護のために一緒に出動し後に被爆により原爆症で亡くなった同期生の御霊に対し冥福を祈ると共に安らかに永眠されることをお祈り申上る次第であります。
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