当時私は、広島女子商一年で昭和二〇年八月六日学徒動員として鶴見橋附近での作業でした。作業が始まったばかりの時、誰かがB29が飛んでるよ!の声に私は空を見上げました。その瞬間、ものすごい光(青とも黄とも)が顔に降ってきました。思わずアッ!と叫んで両手を顔におおって、しゃがみました。生ぬるい炎に包まれてフワフワ浮いているようでした。何分位いたったのか、顔から手を取ると、あたりは真暗であちこちに火柱が上っていました。どうしよう。私はしばらくそのままぼんやりしていましたが、だんだん明るくなったので立上り見廻しましたが一面灰色。誰の姿もなく、私は必至で誰かを求めました。はるか彼方で女学生が輪になってシャガンでいるのが、ムクムク起き上ってくるのが見えました。必至でかけ寄りました。「一緒に逃げよう!」と手を延べてくれた友が一番親友である内田久江さんだと云うことが、名前を聞いて始めてわかり、とてもうれしかったのです。もう、髪の毛は逆立、顔も手も足も皮がはがれてぶらさがり、目もつぶれかけて、私も同じ、すごい有様でした。死体がゴロゴロころがってる中を、二人で泣きながら、手を取り合って逃げると、後から数人、親友の山下元子さん達が追って来ました。お互い名前を聞く迄誰が誰だかわからない程の形相でした。
結局、東練兵場の救護所に避難し、トタンの上に横たわったまま、うごけなくなりました。途中、白衣を着た兵隊さんに、おんぶしてもらったり色々ありました。廻りでは、兵隊さんが(自分は二部隊の○○であります。)と、助けを求めながら死んで行かれました。家族をさがして呼び交う声が夜もずっと続き、私も母の来てくれることを待ち侘びて耳を傾けていました。
三日目位に山下さんのお母様、次に内田さんのお姉様(上級生晴子様)が、さがして来られ、とてもうれしかったのです。それからは、三人一緒同じ場所に移動して面倒を見て下さいました。私の家族は全滅で一瞬にして一人ぼっちになったのです。悲しい悲しい思いをしました。
後でわかりましたが、母は、弟二人と共に家の下敷となり西天満町の自宅で焼け死んだのです。祖母は左官町方面に勤労奉仕で行方不明死亡。でも、当分の間、きっとさがしに来てくれると、そればかり。
こうして筆を取りますと、つい昨日のことのようにあの日のことを思い出し涙がとめどもなく溢れ出てしまいます。
家族全部をうばい、一生消えることのないケロイドと、現在尚苦しんでいる(がん)に、戦争とはいえ激しい憤りを感じます。
私の学校に、衛生隊指田部隊と通信隊亀山部隊が駐屯していました。その兵隊さん達も傷をおいながら、良く皆んなの治療をして下さいました。桶に入れたオキシュールと、リバガーゼ。おいしいおにぎり。有難うございました。傷が痛んで三人で良く泣きました。
旧姓、岡本愛子
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