昭和二〇年八月六日、私は学徒動員先より八〇キロ位の道程を学友と共に駆け足、徒歩を繰り返し、広島市吉島羽衣町の自宅へ向って、懸命に急いだ。市内に近づくにつれ、傷ついた人達のうめき声、馬の腹が風船玉のやうに真赤になり膨れ上り、横たわっている無慚な死の姿を見るにつけ、家族の無事を念じ乍ら走りに走った。七日の午前中、やっとの思いで、川と道路を目当てにして、自宅であったろうと思われる所で只、忙然と時の流れを忘れて、佇づんでいた。どれ位、時間が立っただろうか。同じ三菱重工の社宅の人と逢い、家族全員死亡した事を知らされた。只、母は重傷を負い、担架に乗せられ、運ばれた事を知った。その社宅の人がどこからともなく、大きな壷を持って来て下さった。真綿を踏むやうなフワフワの瓦を起し乍ら、燻ぶる匂も気にならず、載いた壷に妹達の遺骨を採集していた。形ある骨、崩れ落ちるはかない骨を拾い乍ら幼き妹達の顔が浮んだ。良子、文子、和子と妹達の名前を呼び乍ら、いつしか、とめどもなく、流れ落ちる涙をどうしようもなかった。そして、壷一杯になった遺骨を懐き乍ら長い事坐り込んでいた。薄暗くなって、再び社宅の人が来て下さって、三菱社宅の生きのびている人達は皆エバの工場に避難しているのでと工場へ連れていって下さった。そこでも隣近所の人々が、西岡さんの所は可愛そうに・・・・私達も逃げまどう事がやっとでどうしようもなかったと、ただ涙涙であった。事実、地面にたたきつけられ吹き飛ばされ、己が生きているという意識の下で、人々と共に逃げる事が先決だったやうだ。ただ、気絶して重傷で助け出されたであろう母の安否が気が気ではなかった。翌日も、翌々日も焼跡へ行き母の行方を探したが、とうとう見つけ出す事が出来なかった。すぐ下の妹叔子も学徒動員で被爆の中心近くであったので、全員死亡との報を受けた。
当時、父は熊本の三菱重工へ転勤していた。八月一一日だったと思う。丁度、熊本へ行く社宅の家族と一緒に被災証明書を貰って、母の行方を気にし乍ら、己斐駅から父を尋ねて熊本へ向った。己斐駅付近ではおびただしい死亡した人達を広場で焼いている悪臭が目が痛くなった記憶が今も甦がえる。その頃でも海岸附近には赤く膨れ上った人達が流されているとの事であった。何と悲惨な事であろうと子供心にも戦争の恐ろしさを痛感した。
|