●当時の生活
昭和二十年当時、我が家は両親と六人きょうだいの八人家族で、竹屋町に住んでいました。上から三番目だった私は当時十四歳で、進徳高等女学校に通っていました。父の木村広吉は三菱重工業に勤めており、また十九歳の姉・澄江は陸軍船舶司令部(元運輸部)で、十七歳の姉・辰子は己斐町にある工場でそれぞれ働いていました。あとは、八歳と五歳の妹、そして郊外へ学童疎開をしていた十一歳の弟がいました。
戦争が激しくなるにつれ、敵の軍機が飛んでくる回数も増えてきました。このまま市内に住み続けるのは危ないので母の故郷である賀茂郡原村(現在の東広島市)に疎開すべきではないか、という話も家族内で出ましたが、父が「妻の里へ疎開なんてしたくない。広島に残る」と言ったため、そのまま家族で市内に残っていました。
●被爆直後
八月六日の朝、私は南竹屋町の学校で、建物疎開作業に備えて校舎内で待機していました。運動場へ集合する合図のサイレンが鳴ったので校舎から外へ向かっていましたが、靴を二階に忘れてきたことに気づきました。二階まで取りに戻ったため皆より遅れて一階に降り、そして靴を履こうとしたそのとき、ピカっと光って、一瞬のうちに校舎の下敷きになっていました。何が起きたか分かりませんでしたが、「あぁ、だめだ」と感じました。
瓦礫の中、大きく息を吸うとたくさんほこりが入ってくるし、かといって小さい呼吸だと下敷きになっているため苦しく、どうしようもない状態でした。もうここでだめなのかと絶望していた私でしたが、上へと向かう瓦礫の隙間と、そこから抜け出ていく人が見えました。「あそこまで行けば助かるかもしれない」と思い、なんとか体をねじらせながら上へと向かって、瓦礫から抜け出ることができました。出た先は崩れた校舎の屋根の上で、周りは真っ暗でした。腰を強打していたため歩くことができませんでしたが、ここにいてもしかたないと思い、手と足を使って少しずつ、はうように降りていきました。
降りていると、防火用の大きな水槽の中に生徒がたくさんつかっているのを見付けました。この水に入らなければいけないのかと思った私は、自分も入れてもらおうとしましたが、水槽の中は既に人でひしめきあっていて水はぬるま湯になっていました。ここではなくどこか別の所を探そうと思い、校門まで進みました。門の近くでは、一人の先生を囲むようにして、皮膚がただれて誰が誰なのか分からなくなった先生や生徒が何十人も群がっていました。見た目には服が多少破けているだけだった私の所にも「木村さん助けて」「お水をちょうだい」と彼女たちは必死に助けを求めてきましたが、自分自身まともに歩けない状態だったため何もしてあげられませんでした。
●はだしでさまよう
とにかく家へ帰ろうと思ったのですが、皆比治山方面に向かって逃げており、我が家の方向とは逆向きに人の流れができていました。学校から我が家までは歩いて十~十五分の距離でしたが、校舎内で被爆した私は靴も履けずにはだしのままで、また腰も強打しておりうまく歩けませんでした。同じ方面に帰る人も見当たらず、自分だけでは人の流れに逆らって進むことは困難だと悟り、家に帰るのを諦めました。
道路には割れたガラスや電柱が散乱していました。その中を一歩進んでは休み、また一歩進んでは休み、少しずつ歩いていきました。周りでは火の手が上がってきていました。電車道まで出ると、電車は走っていなかったものの、車が行き来していました。「乗せてください」とお願いしてみましたが、止まってくれる車はなかったのでしかたなく歩き続けました。自分が今歩いている場所が何町なのかも分かりませんでしたが、兵舎のような建物とどぶ川が見えてきました。もうどぶ川でもいいから入りたい、と思いながら座っていると、兵隊さんが私のそばにやって来てどうしたのかと声を掛けてくれました。私が「建物の下敷きになったため腰が痛くて歩けないんです」と伝えると、兵隊さんは「この先の学校まで僕がおんぶしますから、そこで処置を受けなさい」と言ってくれました。こうして近くの学校の門までおぶって連れて行ってもらえましたが、治療に来ている人たちは血だらけの人や皮膚がただれた人ばかりでした。目立った外傷のなかった私は校内に入る勇気も出ず、校門のそばに座り込みました。
●比治山へ
なすすべもなく校門の所に座っていると、乳母車を押した五十歳くらいの女性がそばに来て、どうしたのかと尋ねてきました。腰が痛くて歩けないと伝えると、「私の家が比治山の上にあるから行きましょう」と言って、私を乳母車に乗せて比治山の彼女の家まで連れていってくれました。
彼女の家の近くに洞穴があり、そこでしばらく生活していいと言われました。「水も食べ物もあるから、欲しいものがあったら何でも言いなさい」とも言っていただき、とてもありがたかったのですが、吐き気とめまいで食べることも飲むこともほとんどできませんでした。洞穴にべったりと寝そべって、トイレに行きたくなったら、はってトイレに行く日々を過ごしました。そこで何日間お世話になったかは分かりませんが、一週間はいたように思います。
ある日、その女性の娘さんが仕事から帰ってきました。娘さんは偶然にも姉の澄江と同じ船舶司令部で働いていることが分かりました。「私の姉も勤めているのです。木村というのですが知りませんか」と尋ねると、「木村さんの妹さんですか。お姉さん、元気でいますよ」と教えてくれました。
その後船舶司令部まで再び乳母車で連れていってもらった私は、一番上の姉と再会することができました。船舶司令部には母も姉の辰子も避難してきていました。姉の辰子は勤め先である己斐町の工場で被爆後、橋の落ちた川を渡って竹屋町の我が家まで帰ったそうです。「家の方が被害に遭っていないと思って帰ったのに、自宅周辺も壊滅状態だった」と言っていました。
自宅で被爆した両親は途中まで一緒に逃げていましたが、救護所まで車で運んでもらう際にはぐれてしまったとのことでした。父はやけどで皮膚が垂れ下がっていたそうです。宇品町の海岸近くにあった船舶司令部は被害が少なかったので、被爆したけが人が次々と運ばれていました。父もどこかに運ばれてきてはいないかと姉が捜しましたが見つかりませんでした。
八歳と五歳の妹は、被爆時に隣の家に遊びに行っていたそうです。原爆投下直後に母が捜し、その後も姉が何度も捜しに行きましたが、骨すら出てきませんでした。
船舶司令部にいる間も空襲警報は度々鳴り、防空壕から出たり入ったりを繰り返す日々でした。私と母は腰を痛めていたため、姉二人にそれぞれ抱えられながら避難していました。船舶司令部に一週間くらいいた後、母の故郷である原村へ行きました。
●疎開先での生活
原村には医者が一人しかおらず、ひどく腰を痛めていた私でしたが大きな外傷がなかったため診察の順番はなかなか回ってきませんでした。母も腰を痛めており、さらにガラスの破片が体中に入ったままでしたが、そんな母ですら診てもらえないままで、そのうち母の髪は抜け落ち、口の中は化膿してしまいました。「痛い、痛い」と言う母に対して何もしてあげられず、また母の面倒をみるほど自分に余裕もありませんでした。後に私の口内も化膿し、その影響もあって現在では総入れ歯で生活しています。
疎開後しばらくして学校が再開しました。全焼してしまった南竹屋町の校舎に代わり、佐伯郡地御前村(現在の廿日市市)にある国民学校の校舎で勉強することになったので、原村から片道三時間かけて通学しなければなりませんでした。午前五時頃から山道を一時間ほど歩き、汽車と電車を乗り継ぎ、やっと学校に着いて少し勉強したと思ったらまたすぐ帰る、という日々でした。生徒の数は十人前後しかいなかったと思います。
疎開でお世話になった親戚の家は農業をしていたため、学校から家に帰ると草むしりから稲刈り・麦刈りまでのあらゆる農作業を手伝いました。農作業のため学校を休むこともありました。畑に家畜のふんをまく作業も手伝いましたが、馬のふんはさらっとしていてまだ扱いやすかった一方、牛のふんはねちゃねちゃとしていて、触るのがつらかったです。親戚のおじさんがとても厳しい人で、ふんをまくのは嫌だと言うとすごく怒られ、泣く泣く作業をした記憶があります。食糧難の時代なので仕方のないことでしたが、農作業を手伝っても、十分には食べられませんでした。
●父の遺品
疎開して一、二年たったある日、被爆前近所に住んでいた男性が突然原村にやってきました。父の死に際に居合わせたとのことで、父のバックルを持ってきてくれたのです。父は被爆で大やけどを負いながらもどこかで生きているかもしれない、と期待していた私たち家族でしたが、その男性からの報告とバックルにより「父は本当にどこにもいない。父は死んだんだ」とはっきり知ることになりました。
こうして父の遺品は見つかりましたが、被爆時八歳と五歳であった二人の妹は、遺品も遺骨も出てきませんでした。年の近そうな女の子を見るたびに、もしかしたら妹たちもどこかで生きているかも、といまだに思います。
●その後の生活
その後も生活は苦しかったのですが、昭和二十八年に結婚し、三十二年に息子を授かりました。息子を産む際には陣痛が四日も続いてとても大変でした。夫はよく働く人でしたが、疲労が重なり四十歳で心筋梗塞により亡くなりました。夫が亡くなったとき私は三十九歳で、それからは必死で息子を育ててきました。私が被爆しているため息子にも健康上その影響が出ています。私自身も手術を何度も繰り返しており、被爆さえしてなければこんな目に遭わなかったのにと思います。一度だけ同窓会に出席したこともありましたが、みんなと一緒に楽しい話をすることができなかったのでそれ以降は出席していません。
現在私は息子と二人暮らしですが、ヘルパーの助けも借りて生活しています。体があちこち悪くなる度に原爆のせいだと思い、生きていてもしんどいことばかりですが、息子がいるから私も頑張って生きていかなくてはと思います。
●平和への思い
戦争中は、空襲警報の度に防空壕へ避難していました。原爆が落ちる前はいつも空襲警報のサイレンが鳴っていて、防空壕から出たかと思うとまたすぐサイレンが鳴るような状況でした。いつでも逃げられるように家へ入るときも寝るときも靴を履いたままで、安らぐ間もなくとても怖かったことを覚えています。
原爆についてよくテレビで放送していますが、見るのも怖く、また見たくもありません。もう絶対に戦争をしてほしくないし、原爆を使うことは今後二度とあってはならないのです。私のようなつらい目に遭う人をこれ以上増やしてほしくありません。 |