●当時の生活
私は、昭和十八年三月に国民学校高等科を卒業しました。そして、その年の四月から、郷里の島根県を離れ、長崎市にある三菱重工業長崎造船所に勤務しました。卒業するとき、もう少し勉強を続けたいという思いがあり、進路を決めました。ここでは、一週間のうち三日は造船所で働き、三日は学校で勉強することができました。そして一年後には、新設される広島造船所へ移動することになっていました。故郷の近くに帰れるというのも、進路を決めた理由の一つでした。
長崎で通っていた学校は、爆心地付近にありました。もしあのまま長崎にいれば、助からなかったかもしれません。中国地方から十二名が採用されており、翌年には、皆そろって広島市江波町にある広島造船所へ移りました。
広島では、市立造船工業学校に通うことになっていました。しかし、当時学校は、商業学校から造船学校に改編されたばかりで体制が十分整っておらず、勉強は広島造船所の事務所の中でしました。住んでいた寮は、天満川をはさんで対岸の南観音町にありました。そのため、通勤には二キロメートルも上流にある観音橋を渡らなければなりません。造船学の勉強がだんだん難しくなり、二年生が終わると学校を辞め、仕事に専念することにしました。
●被爆当日の様子
昭和二十年当時、私は十七歳でした。八月六日の朝は、造船所で重い鉄板を運ぶ作業をしていました。私がいた建物は、屋根とそれを支える鉄骨の柱に一面だけ壁がある建物でした。その建物から鉄板を担いで外に出ようとした、ちょうどそのとき、バッと光り、時間差があって、爆発音が聞こえました。爆弾が落とされたときの訓練を受けていましたので、とっさに目と耳を手でふさいで伏せました。
しばらくして顔をあげると、辺り一面に砂が舞い上がり、まるで黄砂より濃い黄色の煙に覆われているようでした。周囲は建物の柱のほかには何も見えません。
その後、砂煙が収まり、遠くまで見えるようになってから、事務所に帰りました。事務所では、先輩たちが、皆実町のガスタンクが爆発したとか、それにしては方向が違うのではないかなどと、話し合っていました。そのとき、事務所からきのこ雲が見えました。現在、平和記念資料館などで目にするきのこ雲の写真は白黒なので分からないと思いますが、実際のきのこ雲は、巨大な真っ黒い雲の中から、真っ赤な炎がパッパッと燃え上がっている様子が見えました。造船所は爆心地から四キロメートルを超えた地点にありましたが、それでも近すぎて、きのこの形には見えず、もくもくとした黒煙が上へ向いて上がっていくような感じでした。
そのうち、本川を次々と死体が流れてくるようになりました。私は、その引揚げ作業を手伝うように指示されました。当時は水もまだきれいでしたので、川底を沈んだまま流れていく死体がよく見えました。川は引き潮で流れが速く、河口付近なので川幅が広くなっていました。ですから、少々の棒切れなどでは岸に引き寄せることができません。大人の人たちが何とかして引き寄せた死体を、私たちが引っ張りあげました。
それから、工場の電気が止まり仕事ができないため、事務所で話をしていました。すると、市内に家がある者は帰ってよいと、許可が下りました。私も外の様子が気になります。そこで、友達と二人で守衛所に行き、広島貯金支局へ勤めている同級生を捜しに行きたいと申し出ました。しかし、私たちは寮に住んでいるので、造船所にとどまるように言われ、出してもらえませんでした。
そうして、造船所で待機したまま夜になりましたが、食べるものがありません。仕方がなく河口で青ノリや小さなカキを取り、くぎで身を出して川で洗い、生のまま食べました。そのときも川には死体が流れていましたが、感覚が麻痺していたのか、何とも思いませんでした。
●翌日の様子
七日の朝、守衛所にもう一度、同級生を捜しに行きたいと申し出たところ、やっと許可が下りました。友達の坂口たつみ君とともに、鷹野橋を通って貯金支局へ向かいました。市内は、今ではとても再現できないような異様な臭いに満ちていました。坂口君が「おい新田、あれ人間じゃないか」と指をさしましたが、そのときは怖くて、横目で少し見ただけで通り過ぎました。
貯金支局に着いてみると、階段は周りの壁が全部崩れ落ち、まるで坂のようになっていました。登ろうとしても、持つ所がなく滑ってしまい、全く中に入ることができません。貯金支局に入ることをあきらめ、隣の広島赤十字病院を捜すことにしました。
病院の門を入って驚きました。そこは、やけどなどで傷ついた大勢の人で、いっぱいになっていました。皆チンク油という白い薬を体中に付け、座り込んだり、寝ころんだりしていました。不思議ですが、ここでは怖いという感情はありませんでした。
病院の建物に入ると、ここも人でいっぱいになっていました。中には、息をしていない人もいました。皆顔まで白いチンク油を塗っており、誰か判別できません。そのため、同級生の名前を呼びながら病院内を捜し歩きました。顔をやけどした医者も、チンク油で真っ白になりながら、必死で治療を行っていました。
病院の廊下を歩いているとき、突然、誰かにすごい力で足をつかまれました。その人はじっと私を見て、「水をください」と言うのです。いきなりの出来事でしたし、怖くて思わず足を振り払ってしまいました。
病院中を捜しましたが、結局同級生は見つかりませんでした。
今でも忘れられないことがあります。それは広島赤十字病院の門の入り口にあお向けに倒れていた三十歳くらいの女性のことです。バスや電車の車掌さんが持つカバンを胸に下げていました。じっと見ていると、その女性は一度呼吸をした後、なかなか次の呼吸をしません。大丈夫かなと不安に思っていると、やっと次の息を吸い込みました。二人で、女性が三、四回くらい呼吸するのを見ていました。その後どのくらいの時間がたったのか分かりませんが、病院を出るときには、その女性はいなくなっていました。あの状態では、一人で歩くこともできないはずです。当時、まだ息のある人も、死体を運ぶトラックに乗せられたという記述を何かで読んだことがあります。もしかすると、その女性もトラックで運ばれたのかもしれません。
病院を出て市役所まで来てみると、長い行列ができていました。炊き出しで、おむすびか何かがもらえるのかと思い、二人で並んでみました。ところが、だんだんと近づくにつれ、罹災証明を発行してもらうための列であることが分かりました。がっかりしましたが、せっかく並んだのだから、もらうことにしました。後に、このときもらった罹災証明が、被爆者健康手帳を取得する際に役立ちました。その後、紙屋町を通り、相生橋、観音橋を渡って寮に帰りました。
寮では、ほとんど人は残っていませんでした。寮に戻っても、食べるものはありません。当時、南観音町には畑がたくさんあったので、何かないか探してみましたが、青いトマトさえ無いのです。どうしようもなく、その夜もまた川で青ノリやカキを取って食べました。
●島根へ
三日がたち、その間に寮の仲間も次々と家に帰って行きました。このまま広島にいても食べるものがないので、坂口君と相談し、会社には内緒で家に帰ることにしました。九日の朝、寮に置いていた自転車で出発しようとしたのですが、後輪に空気が入っていませんでした。しかし、空気を入れることのできる自転車屋など、どこにもありません。そこで、後輪のタイヤに布団の綿をつめてみましたが、数十メートル進んだだけで、元通りになってしまいました。仕方なくそのまま帰ることにしたのですが、パンクした自転車で百キロメートルの道のりを帰るのは、とても大変でした。
どういう道筋を通ったのかよく覚えていませんが、途中、中広町の辺りでは、電車通り沿いの家が焼けて通りへ倒れかかり、道幅が狭くなっていました。まだ火災の熱が残っていて、通り抜けるときに顔が熱くなったことを覚えています。
その後、市内を抜けて北に向かいました。高田郡(現在の安芸高田市)の南部にある、上根峠にさしかかったときのことです。家族の捜索のため広島へ向かっていた親戚と、偶然出会いました。私のパンクした自転車を見て、直してあげようと言ってくれました。けれど、綿をつめているのを見られるのが恥ずかしかったので、何度も断って、親戚とはそのまま別れました。
パンクした自転車を押しながら進むので、一日ではとても帰ることができません。山県郡新庄村(現在の山県郡北広島町)辺りにさしかかった頃には、日も暮れかけていました。民家の縁台に腰を掛け、これからどうしようかと悩みました。すると、その家の人が私に気づいて、声を掛けてくださいました。これから中国山地を越え、島根まで帰ることを伝えたところ、一晩泊めていただけることになりました。とても親切なご夫婦で、その晩は久しぶりの白いご飯までいただき、本当に嬉しかったです。一晩お世話になり、翌朝、島根に向かって出発しました。いまでも、あのときのことを思い出すと涙が出ます。終戦後、運転免許を取得してから、お世話になった新庄村のお宅を捜しました。しかし、道路が変わっていたりしていて、ついに分かりませんでした。
●被爆後の生活
私は、髪が抜けたり、下痢をしたりなどの症状は出ませんでした。島根にはやけどやけがをして広島から帰られた人が何人もいたそうです。そういう人の話を聞いた方が、実家にお見舞いに来られましたが、私が元気でいるのを見て、皆、驚いていました。
昭和二十三年五月に、就職のため、再び広島へ来ました。当時のことはあまり思い出せません が、市内にはバラック建ての家がたくさんありました。
●平和への思い
今の若い人たちには、できるだけ被爆者の話を聞いてほしいと思います。図書館にある本を読んだりするのは、もちろん良いことです。しかし、それが小説の場合、作り話のようになってしまい、事実と違うことがあります。本当は、原爆養護ホームに行ってお話を聞いてほしいのですが、なかなか個人では行けないかもしれません。
私は定年退職してから今まで、さまざまなボランティア活動をしてきました。現在は、平和記念公園で観光ボランティアガイドを行っています。もっと興味を持って平和記念資料館を見学してもらいたい気持ちから、修学旅行生に碑めぐりが終わった後、問題を二つ出しています。一つ目は、真っ黒なお弁当は、なぜ黒くなったのかです。二つ目は、佐々木禎子さんは鶴をたくさん折りましたが、何羽折ったのか、またケースの中に三ミリくらいの小さな鶴がありますが、これをどうやって折ったのかです。これらの問題の答えは、資料館の展示解説に書かれています。この平和学習を通して、被爆地の広島を忘れないように目に焼き付け、核兵器の廃絶を訴えてほしいと願っています。その後、ガイドをした生徒からお礼の手紙をもらったときなどは、とてもうれしく思います。 |