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瀬戸内海へ 
能見 孝子(のうみ たかこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 広島市(皆実町)[現:広島市南区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二十年八月六日の朝、国民義勇隊員として市役所付近に出かけた母は被爆死。家も父の工場もすべてが灰燼に帰して茫然自失。生きていく術も気力もなく、自宅焼け跡近くの防空壕でやっと命を繋いでいたときのことです。

炎熱地獄だった焦土にも朝夕冷たい秋風が立ち始め、戸が焼け落ちた防空壕には夜になると冷たい風が入るようになりました。体力の衰えた私たちには寒さが身に沁みるのでした。幼い弟たちのためにも何とかしなければ、と父は苦慮していました。親戚の伯母たちも心配して子供を預かろうと言ってくれましたが、みんな戦争の被害を受けて大変だからと、父は断ったようです。三人の子供を連れていては働くこともままならない父は、
「焼け跡にバラックを建てるいうてものう・・・・・・、いろいろ考えたんじゃが、若いときに兄さんのモーターボートを操縦したことがあるけん、小さい船買うて、みんなを乗せて運搬の仕事をしようかと思う。ちょうどカンガルーがおなかの袋に子どもを入れて、あっちこっち動き回るように。そしたら島へ食料の買い出しに行くこともできるけんのう」と言いました。

ずっと後になって私はふっと思ったのですが、もしかしたら劫火を逃れて雁木から筏に乗って漂流していたとき、艀に助け上げられてほっとしたこと、黒い雨にも打たれなかったのは船室にいたから、なども父の脳裏をかすめたのかもしれません。

ある日、父は宇品港へ行って二十人乗りの小さな遊覧船を買ってきました。御用船へ兵隊さんたちを運んでいたのに終戦で失業したため、手放して故郷の島へ帰りたいという人から譲り受けたそうです。白い船体にうす緑の窓枠がついた、木造の小型船には珍しく本船造りのきれいな船でした。その船で親子四人は一年六か月、水上生活をしました。初めてなので、思いがけない出来事や危険な目に何度も遭いました。

九年前に他界した父の遺品の中から弟が数枚の絵を見つけて、私に見せてくれました。いずれも川や海に浮かんだあの遊覧船の絵でした。簡単な説明文も添えてありましたが、晩年になって思い出しながら書いたものらしく、年月日もそのときの事情や前後関係などもよく覚えていない、と書き添えてありました。じっと見ていると私も当時のことをいろいろ思い出しました。

瀬戸内海の中央にあたり、愛媛県の岡村島が売り主の故郷でした。そこまでは船主のおじさんが父にあれこれ教えながら航行しました。往きはずっと沿岸伝いでしたが、帰りは広い海の中ほどを通りました。終戦直後で進駐軍の上陸用舟艇などが高速でたくさん航行していました。瀬戸内海は海の銀座といわれるほど船舶の往来の激しい海域でした。潮の干満や潮流の知識もあまりない、と言っていた父が、よく無事に宇品港(広島港)へ辿り着いたと思います。軍港として栄えた宇品港は市の南端に当たるため原爆の被害も中心部に比べて少なく、戦後もいち早く闇市などがたくさん立ちました。物の流通も多く船の仕事もありました。海岸近くの水上隣保会へ入り、何とか水上生活にも徐々に慣れました。

穏やかに晴れた日に広島湾や瀬戸内海を航行すると、青い空に群青の海、そして大小さまざまな形をした島々はとても美しかったです。でも私は海に出るとすぐに広島へ帰りたくなりました。空も海も島も戦争の傷跡など見えなくて、あまりにも美しすぎました。広島へ帰ったら母が待っている、とどうしても思えてなりませんでした。

あれ以来、弟たちは一度も母のことを口にしたことはありません。というより言葉を失ってしまったようでした。泣くことも笑うこともほとんどありませんでした。

それでも海上の船は揺り籠のようだったのかもしれません。嵐のときなどでも、自宅の焼け跡の地中から唯一無傷で掘り出された観音さまと一緒に船室でごろごろ転がりながらも、上の弟はだんだんと元気になりました。下の弟は衰弱していたのでなかなか回復しませんでした。十月半ば満二歳の誕生日が来てもまだ歩くことも忘れたままでした。お天気のよい日など甲板に出て日光浴をしながら童謡や唱歌を歌って聞かせました。翌年春頃にはやっと元気になりました。凪のときなど広い穏やかな海に母の懐にいるような安らぎを覚えたこともありました。

航行中、特に印象に残っていることは、やはり命の危険を感じたときのことです。終戦一か月後の九月十七日の枕崎台風のときのことです。いきなり大嵐に逢いました。当時のことは何と表現したらよいのか・・・・・・。

後年、柳田邦男著『空白の天気図』を読んだとき、冒頭で「海は哮り狂っていた。攻め寄せて来る波浪は、猛然と岸壁に襲いかかり、砕け散った波しぶきが退却する間もなく、もう次の怒涛が急迫していた・・・・・・」と著者が表現しておられました。まさにそのとおりでした。港にいても小型船は木の葉のように翻弄され、生きた心地はしませんでした。どちらも同じ広島湾内の出来事でした。

また、京橋川や元安川に停泊していたとき、大洪水で激流に流されそうになったので宇品港へ避難しようと下流に行きかけたら、増水していて御幸橋の橋桁に船のブリッジが衝突しそうになり、間一髪で通過したこともありました。

元軍港呉港沖を航行中、知らぬ間に進駐軍の進入禁止海域に入っていたらしく、進駐軍から威嚇射撃を受けたこともありました。とても怖かったです。

また瀬戸内海を航行中、進駐軍の上陸用舟艇と出会ったとき、たまたま私が舵を取っていました。父は機関室にいました。アッという間に高速の舟艇が近づいて来ました。私は右に左にと避けたつもりでしたが、先方も同じように左に右にと動きます。異変に気づいた父が飛び出して「何をしてるか!」と叫びました。一瞬お互いに急旋回して衝突をまぬかれることができました。航路は昔から右側航行と決まっているのに、超高速で迫ってくる上陸用舟艇に私は動転していたのでしょう。多分相手は舵取りが未熟な子供と見て、なんとか正面衝突などの危険を回避しようと懸命に右往左往したのでしょうが、咄嗟のことで私は慌てていて何をどうしたのか全然覚えていません。

このほか暗夜に浅瀬に乗り上げてスクリューを損傷したり、絵の島の暗礁に接触しそうになって間一髪回避したりしたこともありました。似島沖で突風に遭い、あわや遭難というときも父の機転で助かりました。あとでそこは地獄鼻をいう難所だったと聞きました。父は宇品の船具店で海図や双眼鏡、それに晴雨計、羅針盤などを見つけると買ってきましたが、航海については素人でしたし、大海原なら必要だったでしょうが、箱庭のような多島海ではあまり役に立たなかったようです。

一番強く心に残っているのは、小さい弟が真冬の海に転落したことです。上の弟の知らせで父がすぐに助け上げ一命を取り留めることができました。配給された軍用毛布で父が防寒用にと弟たちに円管服(つなぎ服)を作ってくれていたのでそれを着せていました。そのお陰で海水の浸透が遅かったのと、すぐに父が裸になって体温で温めたので奇跡的に助かることができました。

嬉しいこともありました。戦時中は宮様の御用艇だったという優美な蒸気船白鳥丸だったか浪切丸だったかと宇品港で隣り合わせになったとき、若い船員さんから蒸気で炊いたおむすびをもらったことがありました。蒸気で炊いたのに少し焦げてとてもおいしかったです。また、たまにしかお風呂に入れない私たち三人を、トロール船のおばさんが銭湯に連れて行ってきれいに洗ってくださったり、あちこちでもらい風呂をしたり、島ではお芋やお餅をくださったり、と大変お世話になりました。

平成二十二年十月二十五日、小雨の中、永年の念願であった懐かしい岡村島を訪れました。平成二十年秋に安芸灘とびしま海道が全線開通したので、弟が車で連れて行ってくれました。昔、海路で行ったときより早く楽に行けました。安芸灘大橋~蒲刈大橋~豊島大橋~豊浜大橋~平羅大橋~中の瀬戸大橋~岡村大橋と七つの橋を渡って行きました。待望の岡村島では展望台に登り海を見渡しました。雨上がりの霧の向こうに、来島灯台の灯りが点滅しているのが見えました。感無量でした。

船上生活では一期一会が多かったのですが、人々のご恩は決して忘れません。広島の地に帰ってからも大勢の人々のお世話になりました。現在三人姉弟みんな元気でいる幸せを感謝しています。

今はただひたすら、この地球上からすべての戦争や災害がなくなりますように、これが私の最大の願い、祈りです。

出典 『わたしの生きた昭和』NHK学園 平成二三年(二〇一一年)

 

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