昭和二十年春 国民学校五年生だった私は、集団疎開に行くべきかどうか迷っていました。父は軍需物資増産で日夜、多忙を極めていました。工場の若者たちは次々と戦地に出征したので、母も幼い二人の弟を育てながら、時々父の工場を手伝っていました。私は数え年五歳と三歳の弟のお守りをしたり、母の手助けをしたりしていました。ですから私が疎開していなくなったら、母がどんなにか忙しくて困るだろうなあ、と思いました。
でも、学校では集団疎開を勧められていました。「少国民は生きてお国のために尽くさなければならない。それに六年生は最高学年だから、五年生と一緒に三、四年生たちの面倒も見てほしい」と先生たちもおっしゃいました。
どうしようかと迷っている私に、両親は「もうすぐ六年生になるんだから、よーく考えて自分で決めるように」と私の考えを尊重してくれました。それで私は、小さな三、四年生も疎開するのだから、先生のおっしゃるように一緒に行くことにしたのです。みんな一生懸命にがんばりました。
それなのに、梅雨ごろだったと思います。私は突然熱が出て、声も出なくなりました。ジフテリアに罹ってしまったのです。疎開した村の山奥の避病院に入院し、先生方のお陰で助けていただきました。「血清注射を入手するために先生方が奔走してくださったから、命を取り止めることができた」と、ずっと後で聞きました。
でも、心臓が弱っているから集団生活は無理ということで、親元へ帰ることになり、父が迎えに来てくれました。広島に帰る道すがら、久しぶりに初夏の田園風景を見ました。なんとまぶしく、美しかったことか!それは戦争の最中とは思えないほど穏やかな景色でした。
広島に帰って母や弟たちと抱き合って泣いたとき、もうどんなことがあってもこの家から離れまいと決心しました。だんだん元気になりましたが、病院の先生は母に、「相変わらず心臓が弱っているから、びっくりさせないように。心臓に衝撃を与えないように」と注意されたそうです。母が父に話しているのを聞きながら、私はもう元気になったのに、と努めて元気に通学するようにしました。
八月一日 上の弟の満四歳の誕生日が来ました。母が防空壕の地下に入れていた小豆を煮て、お赤飯を炊いてくれました。缶の中には小豆が半分残してあり、「これはお姉ちゃんの誕生日に使うからね」と。私の誕生日はもうすぐ、八月十六日です。
八月五日 二人の弟を連れて近くの京橋川の土手に夕涼みに行きました。対岸の別荘地帯のずっと向こうの山々の空が夕焼けできれいでした。
明日も暑くなるだろうなあ、と思いながら帰宅すると、母が、「急に明日、勤労奉仕に行くことになったから、学校を休んで二人のお守りをしてちょうだいね」と言うので、「えっ、八日じゃなかったの?」と私。都合で急に参加できなくなった人の代わりに、国民義勇隊員として、隣組の組長である母が行くことにしたそうです。
八月六日 母は、私がご飯をいっぱい入れたお弁当箱を持って、「まあまあ、こんなにたくさんご飯を入れて、お母ちゃん全部食べられるかしら?」と笑いながら言って、勤労奉仕に出かけました。
父が、父の革靴を履いた母に「もんぺと靴の間が空いとるからよく引っ張って足を怪我しないように、注意しといた」と言って見送ってきました。私は二人の弟を連れて奥の部屋へ行っていました。母の後を追って泣いては困るからです。案の定、玄関へ走って来た二人は大泣きして、父や私を困らせました。
それからしばらくして、B29の爆音が聞こえました。私は上空を見ようと玄関に行きました。突然パッ!と閃光が……。
気がついたら全身に壁土か何かが重くて、息苦しくて身動きもできません。一瞬私は、直撃弾が私の家の真上に落ちて、このまま死ぬのではないか……と思いましたが、そのうちまた気絶したようです。
再び気がついたら、私は裸足で、狂気のように弟たちの名を呼びながら庭中を走り回っていました。
しばらくして隣の工場から父が飛んできました。頭から血を流しながら……。
父は弟たちの姿が見えないので、大急ぎで倒壊した家に飛び込みました。ガラガラと不気味な音、もうもうと立ち上る土煙、私は生きた心地もなく、ただ大声で泣き喚いていました。やっと弟たちは助け出されましたが、父の血が付いたのか血まみれでした。でも、何とか大した怪我はなさそうでした。すぐ二人を防空壕に入れました。二人ともただポカーンとして、泣きもしませんでした。私は、二人ともショックで頭が変になったのかと思いました。辺りもシーンとしていました。
私たち三人を防空壕に避難させると、父は、近所の様子を見てくると出て行きました。近所の人たちも動転して、早く国民学校へ避難しようということでしたが、父は、母が帰ってくるまでここで待っている、と言ったそうです。そして土手に上がって、母が行った川向こうの市役所方面を見たら、見渡す限り全市が壊滅しているので、驚いて飛んで帰りました。
自宅から少し離れた南のガスタンクの方からは、大火が迫って来ました。大急ぎで土手に逃げたけれど熱くて熱くて、近くの雁木に降りました。それでも熱いので、近くの筏に乗り移り川の中ほどまで流れていると、運よく艀のおばさんに助け上げられました。なぜか船頭さんは大火傷、そのうち黒い雨が降り出しました。舳先の部屋にいた私たちは大丈夫でした。午後になって潮が引き始めたので、艀は宇品港へ戻るため、私たちは下流の御幸橋近くで下船しました。
御幸橋に上がって、びっくりしました。見るも無残な怪我人や、目を覆うような大火傷を負った人々が、あちらにもこちらにも。橋の西詰北の土手には死傷者がずーっと向こうの方まで続いて、思わず立ちすくみました。
父が「もしかしたら、あの中にお母ちゃんがいるかもしれない、早く探せ」と言いましたが、私は恐くて恐くて目をそむけると、橋の上を軍用トラックが何台も西から東の宇品港方面に向けて走っていくのが見えました。荷台からは、たくさんの人々の手足がはみ出して見えました。生きているのか死んでいるのか、それさえ分からない、とても悲惨な情景でした。生き地獄そのものでした。橋は、爆心地から約二・三キロメートルの地点にありました。
母が勤労奉仕に出かけたのは市役所あたりで、爆心地から約一キロメートルの地点だったと聞いています。疎開家屋の跡片付けで、日陰も何もない炎天下の作業だったとも聞きました。義勇隊員として作業していた人たちは即死に近い状態で、または翌日中にほとんど亡くなったそうです。近くの県立一中の生徒だった従兄も、学徒動員として同じ運命に遭い、亡くなりました。伯母は、いまだに行方不明のままです。
八月九日 父が宇品港沖の似島へ、母を迎えに行くと出かけました。夕方、小さな飴色の封筒に入った、わずかな頭髪と白骨を見せました。
「これが、お母ちゃんだ」
どうしても信じられない私に、父は、
「看病してくれちゃった暁部隊の兵隊さんから直接聞いたんじゃけん……」
と。それでも私は、涙も出さなかったとか。
翌日ごろ 自宅の焼け跡に帰りました。工場跡には、焼けて赤茶けた機械の残骸だけが異様な姿で残っていました。こんなに狭かったかしら、と思うほど焼け跡はあっけなくなっていました。
父が跡形もなく焼けてしまったわが家の防空壕跡に行き、気を取り直したように、一生懸命に土を掘り始めました。母が大事に埋めていた、水を入れた一升瓶は飴のように熔けて、缶に入れていたお米や小豆は真っ黒に炭化、それでも父は一心に掘っていました。
「観音さま、観音さま、観音さまは……、あっ、あった、あった!」
備前焼の観音さまだけは無事に助かりました。父がよほど深く埋めていたのでしょう。観音さまはそれ以来、ずっと私たちを見守っていてくださったと思っています。
日本が負けたのも、私の誕生日が過ぎたのも知らないうちに、お盆は過ぎてゆきました。
終戦直後は 数々の辛く悲しい思いも経験しましたが、あのときほど人々の優しさ、温かさを感じたことはありません。同じ運命にありながら必死で援助してくださった親戚はもとより、多くの人々のご厚意を忘れることはできません。
あの日から六十五年 これまで命あることを感謝しながら、この地球上から永遠に戦争がなくなる日の来るよう、ただひたすら平和な時代が来ますように、祈るばかりです。
|