(一九四五年八月六日 八時一五分広島に原爆投下)
今年は二〇一二年、六七年目の原爆忌を迎える。
平成二四年四月二四日、大正、昭和、平成と波乱万丈の人生を生き抜いた母九十四才で旅立つ。
原爆の話しはあまりしたがらない母でしたが、少し聞いた事と私の幼ない(五才)の記憶を元に忘れてはならない原爆の怖さを書き記す心境になりました。書く事が苦手ですので話が前後になるかも分りません。善意に解釈して下さい。
原爆投下の当時、私達一家は廿日市の母方の親戚に疎開して居りました。
八月六日の朝、私は家の横手にある畑の中でチョウチョを追って遊んでいました。二才年上の姉は小学校一年生で夏休み中の登校日で学校へ行きました。何時だったか分りませんが「誰々ちゃんが怪我をしちゃった」と泣きながら怯えて帰って来ました。学校の窓ガラスが全部吹きとんで何にもかも壊れ、悲惨な状態だったようです。
一人畑の中で遊んでいた私に突然ピカ!!と何かが光り、眩しさで目をあける事が出来なかった。不思議に思って光った方向「己斐」を眺めていると今度は「ドーン!!」という凄まじい地響がして、穴の中へつき落されていく様な感覚でした。しばらくすると朝だというのにまっ暗闇になり、なんにも見えなくなった。その時、家の中から母がとび出して来て「ヒロコ!ヒロコ!」と叫んだ声が今も耳に残っています。やっと探しに来てくれた母にとびついた途端強力な爆風に吹きとばされ、地面に叩きつけられました。そして家の瓦は吹きとばされ、窓ガラスも吹きとび、家中の物が全て壊れ歩く場がなかったのをはっきりと憶えています。爆心地よりかなり離れた廿日市も大変な状態でした。
次の日七日頃からでしたでしょうか・・・・・宮島線の電車の線路の近く、廿日市駅の手前に赤レンガ造りの大きな建物「変電所」があり、そこから少し坂を上った所に家がありました。家の前の路線の上をぞろぞろと焼け爛れた人達が通りはじめて、二・三日続いたと思います。幼い私はその人達を見て人間だとは思えませんでした。何もかもボロボロで真黒で幽霊の様でとても怖かった。私達(姉)を見てみんな「水を水を」と言われました。井戸の水を汲んできて水を上げました・・・・・。線路から小学校へと歩いていかれた方達は校庭にしかれたムシロの上で次々と亡なっていかれました。毎日介護に出ていた母が言って居りました。「赤チン」以外の薬は全くなかったと。その情景も早く忘れてしまいたい中の一つに入るそうです。
次の日か又もうひとつ次の日だったか、母の子供の頃からの仲の良かった「宮田のおばさん」が赤ちゃんを抱っこして、我が家に来られました。
その姿は見る陰もなく焼け爛れ誰れだか見分けがつかないようでした。赤ちゃんは無傷でおばさんが身体で赤ちゃんを守ったそうです。宮田のおばさんの家は昔、猿楽町といって居りましたが原爆ドームのすぐ近くで、よくぞ命があったものよと皆喜こんでいました。私の母も小学校から十六才頃迄ドームの近くに住んでいました。いつもドームで遊んでいたと、又元安川には良く泳ぎに行って「シジミ」がいっぱい取れたと言っておりました。知り会いの人も沢山いたが原爆でほとんどの人達はなくなったと言っておりました。爆弾が投下した時は、廿日市に住んでいて、猿楽町では小さな旅館を親がしていたと言っておりますが多分後地はキリンビールになっていたようです。八月六日の原爆が落ちる前の晩、猿楽町の宮田のおばさんの家に泊るからと母から廿日市の家に連絡が入りました。その時祖母が「明日の朝一番の電車で市内に入り勤労奉仕に廿日市の人達が出る様になったので帰って来る様に」と伝えその夜遅く母は帰って来ました。その母に祖母が「トミちゃん悪かったね。明日の勤労奉仕は「竹原」の人達に替って廿日市は明後日になったと言いました。母達の行く日は一日延びたのです。母は助かったのです。宮田の家に泊っていたら、おそらく生きていなかったでしょう。又朝一番に勤労奉仕に出られた「竹原」の人達も全員市内で亡なられたそうです。母はとても運の強い人だと思いました。
又、元にもどりますが、赤ちゃんを抱いて来られた宮田のおばさん達とは一週間位一緒に暮したでしょうか。もう少し短かかったかも知れません。火傷の所が腐って行くのでしょうか、家中に悪臭を放つようになり、おばさんの身体に蛆虫がわいていたのを見てしまいました。
母は私達子供の事を心配したのでしょう、廿日市の山手の方にある母方の親戚の家に連れて行って、そこの小屋で面倒を見てもらった様です。そこの親戚の人達も大変やさしい良い人達でしたが、何日目かに、突然赤ちゃんと共に行方が分らなくなったそうです。何年か過ぎて調べたら、おばさんは亡なっていて原爆慰霊碑の中に名前があるという事で赤ちゃんはどこかの託児所にいると風の便りに聞きました。その宮田のおばさんをあずかって下さった家もお兄さんに召集令状が来て、兵隊になった三日目に原爆が落ちて、西練兵場で亡なりました。おじさんと私の母と何回も広島迄歩いて探したそうです。広島市内の様子は一切話したくないと言って居りました。
廿日市の家は私達の疎開先で母方の親戚です。それから三年後、私が小学校の二年生の時に兵庫県西宮市の父の実家に帰りました。その時すぐに西宮の市役所の職員の方が家に来られて、私達が原爆にあったと思われて、火傷はしていないか、髪の毛が抜けたのかと聞かれたのを憶えています。又転校した小学校でも原爆病がうつるのではないかと怖がられました。
私達姉妹は広島に住んでいた事を隠す様になりました。お陰様で今年九十四才で亡くなった母は原爆手帳を頂いて居りました。私達姉妹には証明していただける人もいないので、全く手続きもした事はありません。原爆にあった人達と何回か接触して居りますので、心のどこかで不安に思っている事が多分にあります。
以上長々と書きましたが、参考になる事がわずかでもあれば良いのですが・・・・・。
後になりましたが、母は田辺雅章さんの御一家を知っていると言って居りました。息子さんが馬に乗っていらっしゃるのを見た事があるそうです。
又映画監督の新藤兼人さんと父は親友であったそうで二人で尾道へ行って三ヶ月位暮したとの事。新藤さんは中島新町で自転車屋さんで働いて居られ仲良くなったそうです。(私が二十才の頃、広島で撮影している時、訪ねて来られ、一緒に食事を致しました)
山根博子 主婦
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