国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
戦争のない国に生きたい 
山本 八重(やまもと やえ) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島市小網町[現:広島市中区]-電車 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 内閣逓信院広島逓信局 広島郵便局 分室 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は山県郡中野村(現在の北広島町)に生まれました。学校を卒業した後、昭和十七年に広島郵便局へ勤めることになり、一人で広島へ出て、己斐の「別れの茶屋」近くの叔父の家に下宿していました。当時、叔父は岩国の憲兵隊にいて、家には叔母と子どもがおり、私は己斐駅から電車に乗って、細工町(現在の中区大手町一丁目)にある広島郵便局へ通っていました。勤務先は、基町(広島城内)の陸軍第五師団、広島第二陸軍病院にある広島郵便局分室で、毎朝、局へ寄ってお金と書類を預かり、それから分室へ行っていました。

また、局と道を隔てた向かいの島病院に同郷の友達がおり、窓を開けては、あいさつを交わしていました。局の周りはにぎやかな所で、土手筋の貸ボートや川沿いでよく遊んでいました。
 
●八月六日被爆
昭和二十年八月六日は、叔母が田舎へ行って留守のところへ、叔父が何の連絡もなくふいに岩国から帰ってきたものですから、私は叔父の食事の支度をしなければならなくなりました。八時二十分までに出勤しなければいけないのですが、そのため、いつもより遅く家を出ました。

八時過ぎには電車に乗っており、天満町から橋を渡って小網町辺りで被爆したと思います。

満員電車の一番後ろ辺りの混雑した中におりました。一瞬、パッと光って電車が脱線したのかと思いました。気がついたときには電車の中にはいませんでした。爆風で吹き飛ばされたのだと思うのですが、どれくらいの時間がたったか分かりません。防空頭巾と大事な物を入れていたかばんを持っていたはずですが、それもありませんでした。周囲は火事になっていて、火炎のほかは真っ暗で何も見えません。壊れた家の屋根や壁の下敷きになって、助けて、助けてと救いを求める声が聞こえました。また、皆着ていた服が全部縦に裂けて、裸のような状態でした。皮膚がぶらんと垂れ下がった人もいました。私は小柄で人の陰になっていたためか、上着はありませんでしたが、モンペは残っていました。

それから、人が歩いて行く方向へついて行きました。裸の人がいっぱいで、川にはたくさんの人が浮かんで流れていました。己斐に着いたところで、いつも電車で一緒になるおばさんに会い、その人にブラウスをもらって身に着けました。

それから、ちょうど避難する負傷者を運ぶトラックに乗せられて、中野村の家に無事戻ることができました。
 
●中野村の家で
中野村にいた父が「広島に爆弾が落とされ、町が焼けとるんじゃ」と言って、私を迎えに広島に行きましたが、ちょうど行き違いになり、私に会えないまま戻ってきました。「八重なんかおらせんよ、もう死んどる」と思っているところへ私が帰っていたものですから、「よかった、よかった」と喜んでくれました。私が父から借りていた大事な金時計を無くしたことを話すと、父は「時計なんかいらんよ」と言い、それっきり時計のことは何も言いませんでした。

私が戻ったことを聞いて、島病院で働いていた友達の家族が、「うちの子はどうしたん?会わんかった?」と尋ねられましたが、答えられませんでした。島病院は爆心地ですから、あんな所にいたらどうなったか分かりません。私も、叔父の朝ごはんの支度をしないで、いつもどおり電車に乗っていたら、相生橋辺りで間違いなく死んでいたでしょう。

また、横川にいた叔父も無事帰ってきて、「元気でよかったね」と言っておりましたが、一週間ぐらいたって、ふさふさだった髪が全て抜けてしまい、坊主頭になりました。しばらくたって、頭のてっぺんから足の先まで、体中に血の塊の斑点が出て、それを引っかいて血まみれになり、どこもけがをしていないのに亡くなりました。復員した己斐の叔父も元気でしたのに、まもなく亡くなりました。

弟は賀茂郡西条町(現在の東広島市)におりましたが、救援活動で広島に入りました。たくさんの遺体を重ね、ガソリンを掛けて火をつけ、焼いたそうです。その弟も癌で死にました。残留放射線による二次被爆だと思います。

私も熱が出て、ずっと病院に通っていました。横川の叔父が家で亡くなったものですから、父があの爆弾には毒が入っていたと言って、ドクダミ草を朝に昼に晩に煎じてくれました。おいしくはないけれど、ずっとその葉っぱを食べたり、飲んだりしていました。それで元気になったのではと父は言いますが、現代の医学では笑われることでしょう。

中野村に帰ってから、父が「広島へ行ってはいけない。人間の住む所ではない」と言ったので、私は郵便局を辞めました。あの惨状を見たら、皆、そう言うと思います。

八月十五日、天皇陛下の終戦の玉音放送を家で聞きました。やれやれ、終わったと思いました。
 
●終戦後の生活
何年かして広島へ出ることになり、教員になりました。きっかけは、私の妹が栄養失調で目が見えなくなったことでした。妹の力になってあげたいと思い、学校の先生になりました。今でいう特別支援学校の教師でした。

三十歳の頃、三歳年上で同じ職場の人と結婚しました。子どもには恵まれませんでしたが、その代わり、学校で多くの子どもたちと知り合い、勉強ができました。

障害者は学校を卒業してもなかなか職業に就くことができません。そこで、保護者の方といろいろ相談して、昭和三十年代に主人が障害者施設をつくろうと考えました。十余年の長い間、主人は仲間とともに東奔西走して、昭和四十八年六月、湯来町に障害者支援施設愛命園を開園することができました。

私は昭和六十二年に県職員を退職後、愛命園の看護師として勤めさせてもらい、平成六年度からは主人の遺志を継いで、平成十六年三月までの十年間、園長を務めさせていただきました。
 
●健康への被害
被爆後、中野村へ帰ってからずっとドクダミを飲んでいましたが、病気がちでした。肝臓が悪く、去年は乳癌の手術をしました。もう一つ何か病気をしたら死ぬのではないかと思います。お医者さんとは縁が切れないようで、肝臓、腎臓、乳癌と病気だらけです。被爆による放射線の影響かと、元気なときでも不安な気持ちに襲われます。

被爆したことは、言ってはいけないと思っていました。被爆者への差別があり、結婚するときなどに差別を受けていました。

また、ABCC(原爆傷害調査委員会)のアメリカ人が原爆による人体への影響の調査のためと言って、根掘り葉掘り調べて、何度も、何度も入れ違いに訪ねてきました。治療してくれるわけではなく、単に米国の資料にするための調査でした。嫌だと言って、断り続けてもやってきました。
 
●平和への思い
原爆というのは、やはり、あの戦争を終わらせる一つの手段になったと思います。広島に落とし、長崎にも落としました。それで日本の軍隊が、「ああ、いけん」と思ったのではないでしょうか。私には一つ違いの叔父がおりましたが、戦争で死んでかわいそうです。戦争をすれば若い人がどんどん死んでいって、国が滅びます。戦争はしてはいけないし、若い人を殺してはいけな い。今からでも絶対戦争はしないでほしいと思います。

また、平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に刻んである「過ちは繰返しませぬから」というあの言葉を世界中の人々、皆が忘れないでいて欲しいと思います。 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針