●当時の生活
私が生まれた時、両親は仕事の関係でアメリカに滞在していました。昭和二年一月に私はアメリカで生まれましたが、その年の秋には両親と共に日本へ帰国したのでアメリカで過ごした記憶はありません。しかし、父から「アメリカというのは、でっかくて、お金持ちで、それでも皆一生懸命働いて、そして優しい。本当にすばらしい国なんだ」という話を聞いていた私は「アメリカはすばらしい、アメリカは夢の国」という考えを自然に持つようになりました。
帰国後、弟が生まれ四人家族となった私たちは広島市南観音町に住んでいました。自宅は二階建ての広い家で、大きなベランダからは宮島を望むことができました。広い土地を利用し貸家業をしていたため生活に困ることはありませんでした。また、使っていない土地は、空地のままにしておくと取り上げられてしまうので野菜や米を作り供出していました。
昭和二十年、高等女学校専攻科を卒業した私は挺身隊として動員され、三菱重工業の広島機械製作所に勤務となりました。体があまり丈夫ではなかったため、重労働はせず主に看板書きなどをしていましたが、時には、極秘資料を救急袋に入れて運ぶこともありました。十七、八の娘が持っている袋の中に、まさか極秘資料が入っていたなんて、誰も考えなかっただろうと思います。本当は花嫁修業をする年頃だったのですが、そんな時代ではありませんでした。
挺身隊での給料は、父の「一銭も使ってはならない」という言いつけを守り、私自身に使ったことはありません。物がない時代でしたが、父はあちこち駆け巡っておもちゃなどをたくさん買い、陸軍病院に入院している軍人さんが退屈しないようにと贈っていたため、私の給料はその資金になっていました。
父も母もボランティア活動をするのが好きな人で、多くの人から慕われていました。広い家だった我が家は、宇品港から出征する軍人さんの宿舎として割り当てられ、一度に十人以上が泊まることもありました。父は鉄かぶとや鉄砲などを置く棚を玄関に作ったり、軍に内緒で出征前に家族に会わせたり色々と便宜を図っていました。母は、家で作った梅干しと「祈武運長久(ぶうんちょうきゅうをいのる)」と書いたさらしを軍人さんに送ったり、我が家に泊まる軍人さんのお世話をしたりしていました。
●被爆の前後
私は数日前から微熱が続いていたため、八月六日は仕事を休みましたが、寝込むほど体調が悪いわけではなかったので自宅でいつものように過ごしていました。朝食後、母に「朝食の後片付けは私がするから、あなたは表の庭の水まきをしなさい」と言われました。家の門を開けると、お向かいに住んでいる友達の姿が見えたので、水まきもせず彼女と道の真ん中でおしゃべりを始めました。
おしゃべりをしていると、B29が飛んできました。いつもと違い何か白いものを落としたのが見え、今のは何だろうと話していると突然光線が走り、私はとっさに身を伏せました。向かいの家が崩れ、その近くに伏せていた私はその下敷きになってしまいましたが、何とかはい出ることができました。母も無事でしたが、朝きれいに結っていたはずの髪は逆立っていました。畑に出ていた父は体中に大やけどを負いました。私の家は全壊こそしませんでしたが、四十五度くらいに傾き、とても家の中に入れる状態ではありませんでした。けれども、大切にしていた仏様・神様が気になり「助けなくては」と思った私は傾いた家へ潜るように入りました。神棚のある自分の部屋はぐちゃぐちゃで、神様は床に落ちていました。神様を拾おうとした時、その下にある封筒に気づきました。それは神棚に置いていた封筒で、私の二か月分の給料百円が入っていました。後の話ですが、その百円は七日から出現したヤミ市で物を買う資金となり、私たち家族の大きな助けとなりました。
朝おしゃべりをしていた友達も無事でした。その友達が「お姉ちゃん、誰か知らない人が、家のタンスを皆開けて何かしている」と私に助けを求めてきました。彼女の家に行くと、見知らぬ男性がタンスから着物を次々と出しているところでした。「何をしているのですか」と私が声をかけると、その男性は驚いて逃げていきました。傾いている我が家にすら泥棒が入り、下駄箱から靴や下駄をごっそり盗んでいきました。皆が皆そうではないのでしょうが、人間というのはそんなものなのかと感じてしまいました。
●郊外へ避難する人々
我が家は広島市の西部にあり、西大橋を渡って郊外に向かう道路に面していたため、西方面に逃げる人たちが次々と我が家の前を通り過ぎていきました。避難する人たちは無言で、泣き叫んだり、走って逃げたりするような人は一人もいません。絶え間なく続くその行列はとても静かで、まるで幽霊の行進(ゴースト・マーチ)のようでした。
逃げる人々の中で今でも忘れられないのは、国民学校一年生くらいの子どもたち二十数人と引率の女性教師のことです。遠くへ逃げる気力さえなくなった子どもたちが、我が家の畑や空き地で休んでいました。子どもたちは激しく泣くことも、わめくこともせず、「お母ちゃん、お母ちゃん」とただ静かに泣いていました。今思い出してもつらくてたまりません。
●弟との再会
人々が避難していく中、私は傾いた我が家の前にいました。すると、逃げていく人たちの中に、弟らしき人が遠くからやって来るのを見つけました。弟は身長が百八十センチ以上あったため、その当時ではとても目立ち、遠くにいてもすぐわかる背格好でしたが、その時は遠くに見えるその人が弟だと確信できずにいました。なぜなら、その人は頭に包帯を巻いていて、その包帯は血で茶色に染まり、まるでターバンを巻いているように見えたからです。
近づくにつれて弟であることがはっきりしました。会えた喜びもつかの間、弟は私に「お母ちゃんの香水をふってください」と言ってきました。何を言っているのかと思いましたが、弟がそばまで来た時にその理由がわかりました。気分が悪くなるほどの血の臭いが彼から臭ってきたからです。
何とかしてあげたかったのですが、「おうちがこんなに傾いてしまっているから、中に入ってお母ちゃんの化粧台を探すことはできないよ」と伝えました。何か代わりにできることはないかと周りを見渡したところ、逃げていく人がたまたま置いていったワインがあったため、それをかけて血の臭いを消しました。
●被爆直後の弟の様子
当時、弟は十六歳でしたが、飛び級で広島工業専門学校へ進学していました。動員学徒として東洋工業の工員寮へ泊まりこみで働き、週末になると家へ帰ってくるという日々でした。
八月六日は月曜日だったので、弟は週に一度か二度行われる授業を受けるため自宅から学校に登校しており、そこで被爆しました。しばらく意識を失った後、気がつくと、周りに何人もの同級生が倒れていたそうです。同級生に「起きろ、起きろ」と声をかけても反応はなく、崩れ落ちた天井に潰されている人もいました。やっとの思いで建物の外へ出た弟は、噴き出る汗を拭おうと、腰にぶら下げていた手拭いで顔を拭いたところ、手拭いが真っ赤に染まりました。噴き出ていたのは、汗ではなく血だったのです。
無傷だった同級生が弟を見つけ、二人で一緒に帰ることになりました。ところが、帰っている途中、血がまだ流れ続けていた弟は、住吉橋の辺りで「もう眠くて仕方がないから、この橋のたもとでちょっと休む」と言い、ウトウトし始めたそうです。ちょうどその時、見知らぬ男性が通りかかりました。男性は逃げている途中で、なぜか一升瓶を抱えていました。その男性が弟を見て、「この子は寝てしまったら助からんぞ。そのまま死んでしまうぞ」と言い、大切に抱えていた一升瓶を口で開け、瓶から直接弟に飲ませました。初めて口にした酒の強さで弟は目が覚め、再び歩き出すことができました。弟が生きて帰ってこられたのはその男性のおかげだと思います。弟は帰る途中どこかで救急の手当も受け、包帯を巻いてもらえたのでした。
●黒い雨
弟との再会後、黒い雨が降ってきました。黒い雨が降ってきてからすぐに、小型のセスナ機のような飛行機音もしてきました。その時は黒い雨が何なのかさえわからず、「ガソリンをまいて私たちを焼き殺そうとしている」と周りが騒ぎだしました。私は弟に、お向かいの家のところにあった防空壕に入るよう言いました。防空壕といってもとても小さなものだったため、弟の体半分しか入りませんでしたが、あまり黒い雨を浴びずに済んだと思います。一方私は防空壕に入ることができず、黒い雨をたくさん浴びてしまいました。その日は白いブラウスを着ていたのですが、黒い雨のせいでネズミ色の水玉ぼかし柄のように染まってしまいました。
●爆心地へ向かう
被爆から一夜明けても、向かいに住んでいた友達の弟が帰ってきませんでした。彼女の弟は爆心地付近で建物疎開作業をしていたので、私は一緒に彼女の弟を捜しに行くことにしました。
八月は夏の盛りで暑いはずですが、暑かった記憶はありません。どういう履物を履いていたのかもよく覚えていませんが、地面がまだくすぶっていて熱かったことだけははっきりと覚えています。防火用水に足を突っ込んでぬらしながら歩きました。すぐに熱くなるため、ぬらしては歩き、またぬらすということを何度も繰り返しながら進んで行きました。原爆で道も建物もほとんどなくなり、ところどころに電信柱や焼けた木が残っているのみでした。
友達の弟が作業していたと思われる相生橋付近までたどり着いたのですが、そこでは既に兵隊さんたちが何百体もの死体を並べていました。その時の私は「怖い」という感情が麻痺していて、並べられた死体を一人一人見て友達の弟がいないか確認することができました。しかし友達は死体を直視することができず、そっぽをむいてただ私のそばについているだけでした。
たくさんの死体の中に、一組の母子の死体がありました。お母さんの背中と赤ちゃんのおなかだけが肌色のまま残り、ほかの皮膚の部分は茶色く焼け焦げていて、ずるっとむけそうな状態でした。お母さんが赤ちゃんをおんぶしていたため、お互いに接していた部分は焼けずに済んだのでしょう。死体に対する感情は、麻痺してしまっていましたが、その母子の死体を見た時はとてもつらかったです。
●その後の生活
被爆により傾いた我が家は数時間後には完全に倒壊しましたが、その木材を利用してバラック建ての家を大工さんに造ってもらいました。家族皆瀕死の状態で、それならば自分たちの家で家族一緒に死にたい、という父の思いから建ててもらったものでした。その家で一家四人暮らしましたが、バラックといっても四部屋もある大きな家だったため近所でも評判となりました。
食べ物のない時代でしたが「体が第一」と父は土地を売って食糧を手に入れ、一方母はつきっきりで家族の世話をしてくれました。母自身ひどい打撲と被爆の後遺症で苦しんでいたにもかかわらず、私たちを助けたい一心で懸命に看病してくれ、母の強さを感じました。このように大変な状況でしたが、周りの方々からの助けもあり、苦労をしたという覚えはあまりありません。
被爆後、体調を崩し半年以上寝込んでいた私でしたが、ある程度回復してからは様々なお稽古ごとに通うことができました。戦後、洋裁が流行となり、自分もぜひ海外で洋裁を勉強したいと両親に頼んでみたところ、アメリカへ学びに行くことを許可してくれました。娘は世間知らずだから、どうせ一週間もしないうちに泣いて帰ってくるだろうと両親は思っていたようです。こうして私はファッションの勉強をするため昭和二十四年からハワイの洋裁学校に通い始めました。すぐに帰ってくるという親の予想に反し、学校を卒業した私はさらに後、自分が生まれたパサディナというところを一目見ておこうとアメリカ本土に渡り、そのままそこにある短大の家政科に通いました。英語がほとんどわからない状態で始めたアメリカでの生活は苦労もありましたが、多くの人に助けられ充実していました。その後日本に帰国したのですが、昭和三十三年には結婚のため再びアメリカに渡りました。
昭和四十六年十月にロサンゼルス近辺の被爆者が集まり、在米被爆者の活動がスタートしました。私も米国被爆者協会の会員として活動を始め、被爆者を援護する被爆者医療の支援や被爆者健康手帳の取得について、日本の厚生大臣に直接お願いしたこともありました。アメリカでは公的健康保険がないので皆個人的に保険に入りますが、被爆者ということで保険に入ることができない場合があったからです。私も保険に加入することができなかったため、国の保険が適用される六十五歳までは医療費を全額負担していました。
こうした被爆者援護の活動と共に、被爆体験を語る活動を三十年以上続けています。被爆のことは忘れたいと思いあらゆる努力をしましたが、忘れることはできませんでした。それなら気持ちを切り替えて、被爆を体験した数少ないアメリカ国民としてはっきり伝えていこうと思いました。
この活動を長く続けられているのは、お金にならないこの活動を許し、なおかつ協力してくれた夫や不慣れながらも小さい時から家事を手伝ってくれた娘、そして私たちの活動に理解を示し支援してくれた様々な方の協力があったからこそだと思い、本当に感謝しています。今は孫も二人いて、幸せな日々を過ごしています。
●平和への思い
私は、自分の被爆体験や平和への思いを小学生から大学生、時には社会人まで、たくさんの人たちに話してきました。皆一生懸命私の話を聞いてくれます。私がアメリカで会った人たちは必ずといっていいほど何も知らず、話をすると「やっとあなたの話で原爆の恐ろしさがわかりました」と言い「ごめんなさい」とおわびまで言ってくれます。話せばわかってもらえるのです。
ハワイの洋裁学校に通っていた時、白人の紳士が私を指差し厳しい表情で「お前が真珠湾でたくさんの兵隊を殺した」と言ってきたことがありました。私はその時まだ流ちょうに英語を話すことができませんでした。それでも、自分の知っている限られた単語を並べて、自分は広島で原爆に遭ったこと、あなたと私はきょうだいであること、そして「アイ ラブ ユー」と伝えました。白人の紳士は黙って去ってしまいましたが、何年か後になってこのできごとを人に話した時、「あなたの気持ちはちゃんと伝わったはずだ」と言ってもらえました。
私はその白人の紳士を憎むことはできません。彼もきっと親しい誰かを真珠湾で亡くしたのでしょう。
被爆体験を語った後、子どもたちに戦争は好きかどうか聞くと皆「嫌い」と言います。子どもたちからは、よく「ばあちゃんはなぜ憎むことをしないの」と尋ねられます。憎むことで何かプラスになるのなら、朝から晩まで憎い、憎いと言い続けていると思います。でも憎いと思っているだけでは何の解決にもならないし、自分が孤独になるだけだと思います。被爆体験として伝えなければならないことは伝える。でもそのことに対して憎しみを抱くだけでなく、許しあうことや話し合うことの大切さも考えてほしいのです。 |