暁第二九四〇部隊船舶司令部の管理部に筆生として勤務していた私はその日もいつも通りの八時からの朝礼を終えて二階の部屋に入り書類や筆箱などを机の上に置いた瞬間物凄い爆風で天井板を取り除いた太い梁の上にそれ等の物はすべて舞い上がりました。それと同時に扉を外した部屋の入口に置かれた衝立が音もなく倒れました。ふと窓の方に目を転じた時真ん丸い真っ赤な目の覚めるようなきれいな物が見えました。まるで巨大な太陽が目の前に落ちて来たかと思われました。しかし私は大変不吉な気持に襲われすぐ建物の外の防空壕に走りました。しかしすべては終わったあとでした。落日の美しさとも違う本当にきれいな真っ赤な円球でした。
しばらくして部屋に戻り診療所に行き外部の一般市民たちが被爆して手当を受けに来る様子を初めて目にしその異様な姿に驚き入りました。衣服はもとより焼け爛れた皮膚が剝けてまるで若布をぶら下げているようでした。そこから次々爆心地から運ばれてくる負傷兵の介護を外のテントの下で始めました。冷凍みかんを口に運ぶと美味しそうに食べてもらいました。その大勢の中に女性が一人付添っておられました。家族の人に側に来てもらって何と倖な人だろうと思ってその女性に目を移したところその方が私の名前をお呼びになりました。記憶にない方でしたが以前当時の習慣として徴傭逃れのため小学校の代用教員を二年余り経験した私には応召された先生をすぐ思い出すことが出来ました。驚く私に奥様は「主人です」と仰って傍らの負傷兵を教えてくださいました。広島城にある西部第二部隊に勤務されていた先生は習字のお上手な方でしたのでそれを生かしたお仕事をなさっていたのでした。建物の中でしたので火傷はされていませんでしたが鼻が真ん中から切れて山型になっていました。でも私には先生という事がすぐに判りました。思わず先生の名を何度も呼びましたが応えはなく唯しきりに譫言を口走っておられました。恐らく書類のことやその他仕事というかご自分の任務に係わる言葉を発しておられたものと思われます。六十年経た現在でも先生の痛々しいお顔とお声をはっきりと思い出すことが出来ます。また他の方は比較的お元気で私の差し上げたお粥を美味しいと召し上がり幹部候補生の服装でしたがご自分は京都から来たと仰って「母がひとり待っています。京都は良い処ですよ。是非遊びにいらっしゃい。案内します」と珍しく饒舌な方でしたが翌日先生の奥様はいらっしゃらなくてあちこちに莚がかけられていました。京都の方のご住所やお母様のお名前を伺っておけばよかったと何十年も後に後悔したことでした。先生には当時可愛らしい坊ちゃんがいらっしゃいましたが一度も学校の方を尋ねたこともございません。この年になって奥様はご健在でいらっしゃるかと思い返しています。
その日は軍隊で泊まり翌日十時すぎた頃友人と連れ立って市内を歩き廻り一望千里の広島を目の辺りにし一昨日まで毎日通っていた電車通りも至る処に死体が転がっていました。爆心地では黒焦げの死体もありアフロヘアーの頭髪になったものそしてどの死体も一様に顔はパンパンに脹れ見分けのつかない形相をしておりました。身内の方が探しても判らない筈です。相生橋を渡ってまもなく防火用水槽の中に赤ちゃんを抱いて和服姿の母親を見ました。外傷もなくまるで生きている様に感じられました。
舟入川口町のわが家に辿りつきましたが隣の小学校も潰れ溝川のそばの家もペシャンコになっていました。裏に父・母と前日の日曜日に長男の具合が悪く以前からのかかりつけの小児科へ診察に行くため疎開先から出てきた姉と甥の四人がいました。二階の部屋が一階に落下していました。父は爆心地からごく近くで被爆し満員電車に乗り換えた瞬間人々の影に救われ外傷は右耳の後に三、四センチくらいの火傷をしただけでしたが三〇分くらいのわが家へ七、八時間かけて燃えさかる阿鼻叫喚の巷を死ぬ思いで辿り着いたのです。しかし高熱に苦しみ続け八月十五日の午前七時頃逝きました。
聖戦と国民を欺いて始めた軍人東條英機を決して許すことは出来ません。中国・韓国その他のアジアの国々に赦しを請うべきです。原爆を落したアメリカは我々日本人として決して許すことは出来ませんが戦争を仕掛けた軍部を憎みます。
憲法を改めるなど九条は絶対守るべきです。大事な孫たちを戦場に行かせることは出来ません。
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