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被爆について思うこと 
村岡 洋(むらおか ひろし) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立中学校3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆が投下されてから、今年は六〇年になる。私は今迄、自分が被爆者だと話したことはあるが、内容は殆んど話さなかった。他人からみると、何か無責任なように思われるかも知れないけど、あの八月六日の原爆投下の日の惨状を思うとき、思い出すだけでも腹立たしく、原爆を作った者、投下を命じた者、何の罪もない非戦闘員が一瞬にして多くの人命を失い、以降現在まで原爆症でこれまた多数の方々が悩み苦しんでおられる姿を見るとき、再び、この過ちを繰り返してはならないと言う思いと同時に、思い出したくない気持ちから、原爆に拘ることは避けてきた。しかし最近になって、矢張り、次の時代に申し送りしておくことが、私達原爆を受けた者の義務ではないかと考えるようになり、ペンを取ることにいたしました。

当日は、私は広島市立中学校三年生で、三菱重工(株)の平良村疎開工場(現在廿日市市)で被爆いたしました。作業にかかる前だったので、炎天下の空を偶然見上げた、その瞬間、雲がスーツと消えて突然大きな爆発音とともに、爆風で身体がぐらつき、すばやく目と耳を両手で抑え伏せた。しばらくして恐る恐る立ってみたら、広島市の上空は、今まで見たことのない雲でした。

広島市が被害を受けていることが判明したので、帰途についたが、勿論電車は止っており、歩いて西観音町一丁目の自宅についたのは夕方であった。勿論家は火災にはあってなかったが、全壊しており、家の形はない。歩いて帰る道中は多くの重傷者が多く、顔が火傷で真赤にただれ、頭から皮膚がむけており、水、水、水を頂戴いよーと言いながら手を前に出し、折れた手をぶらさげている人、また皮膚をひきづって歩いている人、死んで倒れている人、そんな人が道路に一杯でこの世の人達とは思えない光景でした。

私が帰りつき、家のあった場所でボンヤリ立っていると、お隣りの小母さんが(御主人は当時海軍大佐)、お父さんもお母さんも三才になる弟さんもお怪我で防空壕の中に居られるから、すぐ行ってごらんなさい。もしかしたら、もう亡くなっていることかも知れない。と教しえてもらったので、すぐ行って見ましたら、三人共、血と砂、土で真黒くよごれ息もたえだえ、この世の人とは思える状態ではありませんでした。苦しい息の中から、父が今帰ったかね。三人共駄目と思うから、お前は九州八幡の叔父の所へ行きなさい。とだけ言って気絶してしまいました。幸い三人共息はしていましたので、古江の知人宅に行き、大八車を借り、三人乗せて草津養生院(診療所)まで行き生きていますので、何とかして下さい。と二人の医師に頼んだところ、火傷なら駄目だが、創なら、何とかしてあげようと言ってくださった時は、地獄で仏とは、このことかと涙でいっぱいになりました。しかし消毒液もなく創を縫う糸もなく、塩水で体と創口を洗い、木綿糸で縫い、ヨードチンキだけの治療でしたが化膿することもなく、幸いなことに命は助かりました。 麻酔薬もない治療でしたので、痛みのため三人共気絶状態でした。

紙面の都合でペンは置きますが、如何に話しても、書いても、芝居にしても、映画にしても被爆者のみが知ることで、体験したものでない皆様には、わからないのが悲しいですね。

  

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