昭和二〇年八月六日は中島小学校に通学していました。友達はほとんど学童疎開で居りません。空シューでほとんどいませんでした。ケイホーがとけたので一人で学校に行き学校についてしばらくしてものすごく明るく教室の中が光りました。その後の事は私は何も分らなくなり気がついたときは真黒で外で人の声がカスカに聞えてきました。早くどこかに行きなさいと声を掛けてもらいましたがどこがどうなっているか全く見る事も歩く所もなくの黒やみの中でした。ノドは干くし私一生懸命自分の家に帰りたくて川の流れにそって歩き始めました。
やっと家ぞくで集る所がきめてあったのでそこまで行きましたがそこからは家はこわれあたり一面火の海でどうする事も出来ませんでした。気がつけばノドの干いたのに気がつきポンプの水をコイでのみました。のんではいけない死ぬるよと云われましたが何も食べる物もなく黒い油のようなものが降って来たよう思ってもかくれる所もないので兄の務めていた刑務所に待っていましたが両親の姿もなく一人ジットしていました。朝か夜か全くわからないのでさみしくてもどうする事も出ずただ両親の来てくれるのをまちました。そしたら私はよく知らない人で「トノミ」さんと云われる方が私の名前をよばれて役所につれて行って下さってここで待ってお兄さんに会えるからねと云ってどこかに行かれました。でもいくら待ってもだれも来てくれません。そこで刑務所の中で夜は入れてもらって大きなカツオの入ったおむすびをもらいましたが私は食べれませんでした。でもまだ飛行キが来るような気がしてこわくてどうする事も出来ません。
一夜明けてやっと両親が来てくれ三人で涙を流してしばらくそこに居させてもらいました。でも姉が一人居ません。母親は頭に三角布をしていてケガをしていました。私も刑務所で頭のキズをぬってもらいました。
天皇陛下のお言葉が有り日本軍の敗戦の事を知らされました。
これから私達の生活も何一つない所から一生懸命小さな子供も大人も道にあるものは何でも食べれる物はないかと命にかけて働きました。その内父親も亡くなり母親も亡くなり、私も一生懸命働き自分一人でも長生してと頑張って行く事にしました。その時兄の戦死の知らせが来て又私の重いなやみがやって来ました。やっと一息又次は姉の亡くなった事を知らされました。
私も今は主人、子供、マゴとにぎやかですが入退院のくり返しでいつどうなるかわかりません。今は自分の事だけで何も考えたく有りません。いつまで私は苦しまなければならないのか戦後六〇年本当につらい気持で一っぱいです。この苦しみからいつぬけ出せるのでせう。
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