六〇年前のあの悲惨な原爆の思い出は、今になっても決して忘れる事は出来ません。
弟は動員学徒の夜勤明けのため七時すぎ帰宅。仮眠しておりました。私は学徒の延長で軍需工場に勤めていました。
八月六日当日は代休で在宅していました。投下の時刻私は裏庭で木造建物置の下敷になりどうにか這出る事が出来ましたが、あたりは土けむりではっきり見えない程でしたがようやく探し当てた弟は鴨居の下敷になり下半身は埋もれて上半身だけ見えましたので必死になり引張り出そうとしましたが到底助け出す事が出来ずそのうち煙が這う様に迫り火の手が近ずいてむせる様になり「もういいよ」と云った弟の言葉をそのままに私は瓦礫の上を去りました。その時を思い出すと今でも何とも云えない気持になります。
山の手の河原にのがれる迄道中には無惨な数知れない人が横たわり亡くなった方の間には、苦しんでいる人々でまるで地獄そのものでした。当時海田方面にいた父が山の手沿いに河原迄来て再会し助かった父の姿を見て安堵で全身の力が抜けた様でした。でも弟のいない事を察してか駄目だったかと一言云って地べたに坐り込み泣き伏しました。私も体の到る場所が裂傷で始めて痛みを感じる程でした。一時して可部街道を北に歩いて逃げる時は倒れそうな人ややけどの方達の哀れな人で此の世の惨状そのものでした。
一晩の体を農家の軒下のもとで体をやすめて明くる朝未だくすぶっている我が家に戻ってきましたが上半身だけ白骨化し下半身はわずか残っていました。本当に済まない気持でやりきれませんでした。その後父が火葬したった一つの遺品としてベルトの金具をずっとお守りの様に持っていました。今は亡き父もどんな思いだったかあまり口にする事はありませんでした。
以後こんな辛い事は私達の世代だけで二度と此の様な事がない様に心より願いたいものです。
私も残り少ない人生ですから今迄は筆にせずほとんど話した事もない体験を記しておこうと思う様になりました。ただただ平和を祈るのみです。
乱筆で申訳け御座いません。
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