原爆投下時にいた場所と状況
広島県佐伯郡厳島町包ヶ浦
広島陸軍兵器補給廠
包ヶ浦分廠で学徒動員で派遣。投下時強烈な閃光と爆音、「きのこ雲」を見、聴く。しばらくして「黒い雨」も降った。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
当日は、学徒動員として厳島の包ヶ浦で軍の作業をしており、直接爆弾の難は逃れたが、しかし市内南竹屋町の自宅では母(三十五才)、弟(十四才)が被爆した。母も弟も、国家や市から半ば強制的に「建物疎開」作業の出勤の命を受け「鷹の橋」附近で当時刻に直爆を受けた。
二人はほゞ全身に火傷を負い、その上母は二階屋根から飛ばされ、片足が骨折する重傷を負った。母と弟は共に励まし助け合い火勢を逃がれ、御幸橋を渡って宇品の共済病院にかろうじてたどり着いた。当地では既に被災者があふれ、死者が続出、弟も治療が受けられずそのまゝそこで息を引きとった。
母も数日後には傷から「うじ」がわきはじめ、苦しみながら十九日に死亡した。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
両親(父は小六時に死亡)と弟、その上家を失った戦後、二十年の暮、中学校を退学して妹とともに、茨城県水戸市郊外で農業を営なむ叔父の家へ身をよせた。そこで成人を迎えるまで主に農業に関係する仕事をしていたが、学問(音楽)への志を捨てきれず、一人で上京。高校、大学、約八年間苦学生活を送り、無事大学を卒業した。今でも忘れられないが、大学の入学、卒業期に肉親たちが祝福している姿を見て、自分の境遇を知るとき、そのさびしさ、くやしさは言葉ではいい尽せなかった。
それに負けずピアノや合唱に力を入れた。卒業後都公立中学校の音楽教師、終りの退職時は管理職であったが、私の教育哲学は「愛」だ。
また、これまで体調をくずした際、放射能による影響ではないかと不安はぬぐい去らない。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
第二次大戦が終結して約五十年が経過した。被爆者及び戦災体験者は次第に老齢化が進み、いっぽうで戦争を知らない国民が過半数である。今日なお核軍縮が強く求められているが、核をめぐってさまざまな論議が世界各国で広がりつつある。
唯一の被爆国である日本、なかでもその体験者は戦争の悲惨さ、おろかさ、苦しみを団結して訴えたい。現在日本で「原爆ドーム」の世界の文化遺産の登録に消極的な意見もあると報道されているが、核兵器廃絶と世界平和の原点のシンボルとして被爆者を中心に国家、国民を挙げて登録に賛成したい。
一人の被爆者として体験を語るとともに平和について具体的に行動したい。
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