国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
戦争は絶対にだめ! 
溪口 雅子(たにぐち まさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市庚午北町六丁目[現:広島市西区庚午北一丁目] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 安芸高等女学校2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は当時十四歳で、安芸(あき)高等女学校の二年生でした。両親と祖父母、草津(くさつ)国民学校四年生の弟と数えで五歳の弟、生まれたばかりの妹の八人家族でした。

私の家は庚午北町(こうごきたまち)六丁目、現在の庚午北一丁目にありました。そのころの庚午は現在のような住宅の多い街並みではなく、畑が多く家はまばらでした。父は農業会に勤めながら農業をし、家のまわりの畑で色々な作物を作っていました。そのおかげで食糧難の時代でしたが、食べ物に不自由したという記憶はありません。しかし、農家ではない方は、畑に残っている小さなイモやイモのツルを集めたり、道端の草などを摘んだりして持ち帰っていました。

父は昭和二十年四月に召集されました。私がちょうど家にいた時、役所の方だと思いますが、召集令状を持って来られました。私はその人から「おめでとう、これをお父さんに持って行って」と言われ令状を渡されました。父に渡した時、父が「来たか」と言ったのを覚えています。

祖母は、地域の婦人会の役員をしていました。出征する方を送り出すために、物のない時でしたが、あり合わせの物を使ってお祝いの席を設けていました。しかし、出征する人やその家族は、とてもつらかっただろうと今でも思います。私も父が出征する時、母と一緒に己斐(こい)駅まで見送りに行きました。そこでは皆が万歳、万歳と言っているのに、私は「何で」という気持ちで、万歳ができませんでした。母も本当につらかったと思います。心の中では、「必ず生きて帰って下さい」と祈っていたと思います。声に出して言うことのできない日本の社会情勢でした。

私の通う学校は、広島市打越町(うちこしちょう)にありました。当時上級生は、勤労奉仕活動があるのでほとんど学校に来ませんでしたが、一、二年生はたまに工場に行くだけで、残りの日は学校で授業がありました。けれども空襲警報が出ればすぐに防空壕(ぼうくうごう)へ避難しなければならないので、落ち着いて勉強をするということは、ありませんでした。

しかし、そのころの広島市内は爆弾を落とされたことがなく、空襲警報が出て避難をしても、敵機は上空を通り過ぎるだけということの繰り返しでした。それで、広島市は空襲をされないと思ったのでしょう、神戸(こうべ)から従妹(いとこ)が我が家へ疎開してきていました。従妹は夏休みになって神戸に帰っていたので、原爆には遭いませんでした。

原爆投下の二日ほど前、学校の先生が「広島に今までにない兵器が使われるという話を聞いたから、帰ってお父さんお母さんに話しておきなさい」と言われました。私は、家に帰って母や祖父にこの話をしましたが、まさか八月六日に現実に起こるとは思いませんでした。

●被爆の前夜
父が出征してから、私は母、妹と同じ部屋で寝ていました。八月五日は、母が夜遅くに、小麦粉を使って今でいうお焼きのようなものを作ってくれました。それを二人で食べながら、父に慰問袋を送ろうという話をしました。母は、たばこが好きな父を思い、「たばこを入れて送ろうか」と言いながら、「雅子は何にする」と聞くので、私は「絵を描いて手紙を書く」と答えました。

それが、私と母の最後の会話になりました。

●八月六日
八月六日の朝は、いつもなら起こしてくれる母が家にいなかったので、私は寝過ごしてしまいました。起床してしばらくすると、空襲警報が出てそれが解除になり、その後今度は警戒警報が出ました。私は、今から学校へ行っても遅刻になるし、空襲警報もあったので学校へ行くのをやめ、弟たちと三人で庭に面した縁側へ座って涼んでいました。庭には築山と大きな岩があり、岩と岩の間に大きな松と紅葉の木が植えられているので、その陰になる縁側は涼しい場所でした。

その時突然、ピカッという強い光が目に入りました。私はとっさに「照明弾だ!」と叫んだ後、「でも、昼に照明弾を落とすことはないよね」と言ったところまでは覚えていますが、そこで気を失いました。どのくらい時間がたったのか、気がついた時には、私は家の奥にある居間と茶の間の間に倒れていました。そして、家の柱は傾きガラスは割れて散乱し、家具類もバラバラ、ガラスの破片は部屋のあちらこちらに突き刺さっており、家の中はめちゃくちゃになっていました。壊れた窓から、家の裏に積んであった薪(まき)が激しく燃えているのが見え、壊れた扉からは隣の家が燃えているのが見えました。このままでは、家に燃え移り自分は焼け死んでしまうと思い、どうにかして家の外に出ると、既に弟たちは外に逃げていました。上の弟が、家から煙が出ていることに気がつき、「バケツに水を」と言いました。だれが水を渡したのか覚えていませんが、何杯か水をかけて、我が家の火は消すことができました。隣の家は全部焼けてしまいました。

祖母が「ここにいたらどうなるか分からないから、子供は松林へ避難しなさい」と言ったので、何が起きたのか分からないまま、弟たちと川の土手下にあった松林に避難しました。そこは造園業の方が植えた松が、林のように茂っていました。松林の中で座っていると、広島市中心部の方から次々と人が逃げてきました。皆全身ヤケドで両手を前にだらんと垂らし、肌は赤黒く人間の肌の色ではありませんでした。焼けた皮膚が、布切れを切ってたれている様に見えました。その時は、ヤケドで皮膚がたれているとは全く思っていませんでした。血を流している人、髪が焼けてちりちりになっている人、ヤケドやケガで目があるのかどうか分からない人もいました。皆か細く弱々しい声で、「水、水」と言っているのが聞こえました。私たちはそんな人々を見ていましたが、何をどうすれば良いのかさえ考える気持ちの余裕もなく、ただぼう然としていて、それよりも、また敵機が来て爆弾を落とされるかもしれないという恐怖の方が強くありました。松林に避難している時に、黒いどろっとしたものが降りましたが、何が降って来たのか気にするような状況ではなく、それが黒い雨で、放射能の雨だというのは後で聞かされて知りました。

広島に落とされた爆弾がピカドンと言うものだと数日後に聞きました。そして後には、原子爆弾と言う恐ろしい爆弾で、百年間は草木も生えないと言われていました。一発の爆弾で広島中が一瞬にして焼け野原になり、死者も十万人とも言われている人たちが焼け死に、遺体のわからない人も多く、戦後六十四年たつ今でも原子爆弾の後遺症で苦しんでいる人が多くいます。

●家族の死
母、中田(なかた)サツノは八月六日の朝早く、先に出かけた祖父、中田勝太郎(かつたろう)の後を追って水主町(かこまち)へ建物疎開の作業に行ったと祖母から聞きました。八日ごろ、近所のおじいさんたちが母たちを捜しに行くというので、私もついて行きました。街の中は、まだ火が燃えているところや燻(くすぶ)っているところがたくさんあり、焼けた電車もそのままになっていました。死体の山に何か分かりませんが、液体をかけているので、何をしているのだろうと思いましたが、後になって死体を焼くために油をかけていたのだと知りました。屠殺場(とさつじょう)だという場所を通ったことは覚えていますが、街全体が焼け野原になっているので、どこの道を通ったのかはよく分かりません。私は子供のころ広島市中心部へ出かけたことがなく、被爆前の街の様子を知りません。知っているのは、ガレキに覆われ、死体が山のように積まれた街です。

結局、母は見つかりませんでした。もしかしたら川を渡って帰ろうとして、川の中で亡くなったのかもしれないと近所のおじいさんは言っていました。当時は服に名前と住所、血液型を書いたものを縫い付けていましたが、水主町にいたのならそれも衣服と一緒に燃えてしまい、だれかということも分からなくなっていたと思います。祖父は数日後に、近所の人が遺体を見つけてくれて、連れて帰ることができました。

大竹町(おおたけちょう)の叔父(母の弟)が、すぐに広島に来てあちこちの収容所を捜し歩いてくれましたが、やはり母は見つかりませんでした。この叔父も後に原爆症で亡くなりました。

父の末の弟、中田太一(たいいち)も原爆で亡くなりました。彼は軍人で、己斐にあった妻の実家から広島城近くの部隊へ自転車で通っていたので、時間的には相生橋(あいおいばし)の付近を通るころに被爆したのではないだろうかと、祖母が言っていました。爆心地に近いので、あのピカッと光った瞬間、叔父の体は溶けてしまったのではないかと思います。光線の強さは、想像出来ない程強いものだったと聞きました。

あの日、もし母が祖父の後を追いかけて出かけていなければ、いつもどおり私を起こしてくれていたでしょうから、私は自宅ではなく、学校へ行く途中で被爆していたと思います。母は前日の夜、六日に出かけるということは言っておらず、急に行くことになったようでした。まるで、母が私の身代わりになったように思えます。

被爆後の我が家は、修理をしなければ家族で住める状態ではなかったので、大竹の叔父は、私と弟たちを自宅に連れて帰ってくれました。庚午の家には祖母が残り、神戸から父の弟が来て片付けなどをしてくれました。

●終戦と戦後の生活
戦時中は、新聞に出ているニュースを毎日書き写すのが、私の学校の宿題でした。ニュースでは、「我が方の損害甚だ軽微なり」という言葉が必ずついていました。だから私たちは、日本の被害は大したことはなく、アメリカは相当大きな被害を受けているので、日本が負けることはないと思っていました。大竹で日本が戦争に負けたと聞いた時、私は、国は国民にウソをついていたと思いました。

戦争が終わり、復員して広島に帰ってきた父が大竹に私たちを迎えに来たので、その後は再び庚午の家で暮らし始めました。その後まもなく父は再婚しました。私の通っていた学校も打越町から比治山(ひじやま)の兵舎跡に移転して再開され、やっと落ち着いて勉強ができる環境になりました。そこに通うようになり、初めて自分は学校に行っているのだと実感することができました。卒業するまでの二年間は、バレーボール部に所属し楽しい学校生活でした。

●結婚と出産
学校を卒業して一年間洋裁や和裁を習い、その後結婚しました。夫は、昭和二十年当時は防府(ほうふ)海軍通信学校に志願して行っており、終戦後の八月十八日ごろに広島へ帰り入市被爆しました。夫は野菜や魚なども扱う雑貨屋を経営していて、私も一緒に働きましたが、すべてが初めてのことばかりでなかなか慣れることができず、実家を恋しく思うことも度々ありました。

最初の子と二番目の子は、生まれた時は二人とも元気でしたが、同じように生後三週間ぐらいに高熱が出て、体は透き通るように真っ白になって息を引き取りました。はっきりした病名は分かりませんでしたが、二人とも三週間で同じように死亡したというのが、私は未だに納得できません。原爆の影響があったのではないかと思います。その後三人の子供が生まれ皆元気に成長しましたが、私も年齢を重ねるにつれて、体力の衰えもあり子供たちの将来のことが心配になってきています。私自身は、とても疲れやすく、甲状腺(こうじょうせん)がんや大腸がんにもなり、貧血ぎみで体調はよくありません。具合の悪い時は、話をするのもつらくなります。

●平和への思い
私はこれまで、自分の被爆体験を家族にもほとんど話していませんでした。私の人生は、戦争の悲惨な体験で青春もなく、母を亡くしてからは相談できる人もおらず、いい人生であったとは言えません。嫌なことは話したくない、思い出したくないという気持ちがありました。

県外に住んでいる息子が、十四歳の孫を広島へ連れて来た時、私も一緒に原爆ドームや平和記念資料館に行きました。その時には、私が原爆のことを話してあげたいと思いましたが、結局、話すことはできませんでした。息子から当時のことを聞かれて答えたことはありましたが、聞かれた以上のことを深く話すということはしませんでした。しかし今では、孫たちのためにも、私の被爆体験を残したいと思うようになりました。私が孫と同じ年のころには、母はいませんでした。孫に「今お母さんがいなかったらどう思う」と聞くと、孫は「考えられない」と答えました。私は孫に、「あなたは幸せよ」と言いました。母を亡くした私に親せきはよくしてくれましたし、私も感謝していますが、言葉では言い表せない寂しさがありました。孫たちには、同じ思いをさせたくありません。

当時を知る私から見れば、今の平和記念資料館の展示はきれいすぎます。被爆者のろう人形やガレキがありますが、被爆した人や街の様子は、あんなものではありませんでした。肌は人間の皮膚の色ではなく、人の形をしているだけで、人間とは言えないような姿でした。原爆ドームも補修をしてきれいになっていますが、当時は無残な姿のままでした。今の若い人たちが資料館の展示や現在の原爆ドームを見て、大したことはなかったのだと受け取らないか心配です。

戦争は、人と人との殺し合いです。罪のない人々を巻き込んで、犠牲者をたくさん出し悲しい思いをさせるだけです。戦争をして得になることはひとつもありません。平和にまさるものはないのです。お互いが真実を話し合えば、必ず通じるはずです。すぐに武器を持ってしまうのではなく、順序を踏んでしっかりと話し合い、お互いに譲れるところは譲り、協力するところは協力していくべきだと思います。常に平和ということを頭に置いて、戦争だけは絶対に避けなければなりません。

私たちが経験した悲惨で残酷な時代を、今の若い人たちには送らせたくありません。平和教育を第一に行い、若い人たちにも、人の命と平和の尊さをしっかりと知ってほしいと思います。絶対に戦争をしてはいけないのだということを、強く強く言い、そして訴えるべきです。戦時中は、若い人が戦争に行くことにあこがれるような教育をしていました。あこがれて戦争に行き、そして死んで帰るのです。自分から死にたくて戦争に行く人は、だれもいません。引きつけるものを作って、そのためなら自分の命を捨ててもいいという気持ちにさせていったのです。これはとても怖いことです。戦争を知らない若い人たちは、戦争の恐ろしさを知り、戦争というものが国を変え、人の心まで変えていくということを知ってもらいたいと思います。

私の母と叔父(父の末の弟)の遺骨は見つからなかったので、お墓には何もありません。祖父は直接被爆で亡くなり、大竹の叔父(母の弟)は数年後に原爆症で亡くなっています。私は、もうこんな過ちを起こしてほしくないという願いもこめて、平和公園に来ては原爆死没者慰霊碑に手を合わせています。八月六日の平和記念式典には多くの人が参加されますが、人々が歩いている下に、母の骨が埋まっているのではないかと思うこともあります。

再び広島のような悲惨なことがあってはいけません。今度もし戦争になれば、核戦争になるでしょう。そうなれば広島どころではなく、人類が絶滅してしまいます。戦争は絶対にいけません。核廃絶に向かって心を一つにして、世界平和のための道を広げて行く一人一人の気持ちと努力、そして対話の積み重ねが、最も大切な事ではないでしょうか。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針