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ヒバクシャからの手紙/亡くなったあの人へ 
貞清 百合子(さだきよ ゆりこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市(楠木町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
亡くなったあの人へ

私は見ました。昭和二〇年八月六日朝、小学校一年生の時友達と、左手上空に銀色にキラキラと光るB29飛行機を見ました。原爆を投下する直前の飛行機です。それからの記憶が全く無いのです。爆風を受け気絶してしまったのです。その一瞬の内に、広島市の街は壊滅したのです。誰も想像しえなかった超破壊力を持った原子爆弾でした。アッと言う間に数万人の人が圧死したり、高度の熱線を浴びて焼焦げて亡くなりました。奇跡的に生き残った者は大火傷や大怪我しました。苦しみました。全てを失い、かけがえの無い沢山の身内を失いました。其の中私は本当に奇跡的に助かりましたが、親戚の人一六名も失いました。其の中で特に忘れられない人が四人居ます。あの日から今日迄生き残らせて頂いている私だから「あの人」へ、言わせて下さい。

初めに、叔父(母の弟)の事です。爆風を受けて倒壊した家の中で気絶して居た私は、気がついた私は、暗闇の中から這い出して見ると、家屋は、ほとんど倒壊して、瓦だらけの残骸でした。方々から火が出て居ました。呆然として居た私は消防団のおじさんに手を引かれて、JR、国鉄の線路に上げて頂いて一緒に逃げました。枕木がまだ燃えていました。沢山の人達が逃げているその中で叔父(当時二六才)に、出逢ったのです。横川駅当りを通り、三滝の竹やぶに着くと、間もなく黒い雨が降って来ました。私は若い叔父に手を引かれて早く竹やぶに着いたから、あの放射能を含んだ黒い雨にも濡れずにすんだのです。叔父にも、母親(私の祖母)と、妻と、生後五ケ月の男児が居て、自宅で被爆して居たのですが助けに行けなく、私を命がけで守ってくれました。一里(四キロメートル)の道を沢山の被爆者と逃げて、やっと安佐の小学校に着きました。そこも、怪我人と火傷の人達でいっぱいでした。その晩は農家に泊めて頂きました。朝から恐怖の一日でしたが、叔父のお陰で安らかな夜が過せたのです。

次は両親の事。同じ楠木町で被爆しました。父は、近所の家で下敷になり、腕が割れて、大怪我。母は、自宅で下敷になり、背中一面にガラスが突き刺さって、痛ましい姿でした。叔父が農家近くの国道に「百合子と速雄が居ます」と、カンバン立てたお陰で、三日目に両親に逢えました。でも私は、そんな痛ましい姿の両親に逢えても嬉しくも、悲しくもなく、ボーと両親を見て居ました。その時母が悲しそうな顔で「この子泣かんよ!」と言った言葉は、はっきり憶えています。原爆の体験で恐怖の余り精神的に、感情も壊れて居たのでしょう。でも親子三人命だけは助かりました。本当に、叔父と消防団のおじさんの、お陰です。若かった叔父も、今年六月に九〇才で亡くなりました。被爆後体も弱り、苦労に耐えて生きて来た叔父に心から感謝の言葉で見送りました。私の中には、あの日守ってくれた若い叔父の姿のままです。両親は私が一四才と一五才の時、相次いで癌で死亡しました。母四四才、父五二才若死にでした。原爆投下の日に助かったのにと、私には辛い別れでした。

次は、私の実母の事。私を産んで、事情あって三ヶ月の私を兄夫婦に預けて再婚しました。広島市の繫華街、胡町で生活して居ました。爆心地から八〇〇メートル位の所です。八月六日の朝、四才の娘と近所の子供さんが家の中で遊んで居て、母は表に居た時、原爆が投下されたのです。瞬間に街は倒壊し、すぐに火が廻って来たのです。家の下敷になって居る子供達の姿は見えないけど、「お母ちゃん、お母ちゃん」と、泣き叫ぶ声。でも母の力では、どうする事も出来ず、迫り来る火の中、母は近所の人に助けられ、泣き泣き逃げたのです。その時の母の心中はどんなにか、辛く惨い気持だった事でしょう。先妻の中学生の息子さんを捜し歩いたそうです。建物疎開の作業に行って、被爆して居たのです。やっと捜し出し、田舎に連れて行き看病して居りましたが力尽きて母は一ヶ月後九月四日原爆症で苦しみ乍ら壮絶な最期でした。放射能で体内が腐り体の穴と言う穴から、ドス黒い血が出て、髪も抜けて、亡くなりました。私は実母とは、知りませんでしたが、両親の計らいでしょうか、実母の最期はしっかり見て憶えています。

母は苦しみましたが、早く死ねて良かったと思います。あの日、娘を見殺しにして逃げた自分は鬼より酷い母だと、毎日、嘆き悲しんで居たのですから。私も、母親になれて、亡き親達の心がよく解ります。今は亡き四人へ、感謝とご冥福を心より祈ります。

語れば、まだ沢山の身内の人達の人生が原爆で失われました。原爆で犠牲になられた方々の鎮魂の為にも、今生きている私達が、二度と原爆使用のない世の中を願います。

 貞清百合子
  

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