被爆後の「苦しみ」被爆後の「希望」
一九四五年八月六日、広島に原爆が落された日、私は小学校一年生、晴れた青い空に飛行機が見えました。ギラギラと銀色に光る飛行機、原爆を落す直前の飛行機です。見た、とたんに、後の記憶が無いのです。爆風で家が潰れて、生き埋めになり気絶したのです。小学校は軍隊の仮兵舎になって居て低学年はお寺や会館で授業していました。気がついて自力で這い出しました。爆心地から一・五キロメートルの所で被爆しました。奇跡的に助かりましたが爆風で左耳は聞えません。両親も同じく一・五キロメートルの所で被爆。母は背中一面に、ガラスが突きささり、父は腕が割れる大怪我。その時は助かった両親は七年後、原爆症ガンで亡くなりました。
あの朝、誰も想像しえなかった超破壊力を持った原子爆弾で一瞬の内に、広島の街は壊滅したのです。(爆風で左耳は聴えません)
アッと言う間に、数万人の人が圧死したり、高度の熱線を浴びて焼焦げて亡くなりました。私の家も、地域の家屋も倒壊全焼しました。
暗闇の中から這い出て、すぐ目の前に、全身血だらけの真っ赤な、お寺のおばさんの姿を見て気が変になったのか、恐怖心も無くなり呆然として居た私は、消防団のおじさんに手を引かれて、国鉄の線路に上げてもらって、一緒に逃げました。枕木が燃えていて、ハダシの足の裏がとても熱かったです。沢山の人達、火傷で赤い人、怪我で血で赤い人。皆んな赤い人ばかりで、怖かったです。その大勢の人達の中で伯父に出逢ったのです。奇跡です。若い伯父に手を引かれ横川駅あたりを通り、母校三篠小学校前当りも家屋が潰れ、燃えていて、ガレキを踏み、瓦を踏みながら、伯父と走りました。途中、いちぢくが燃えて火の粉が降りかかり怖かったです。
三滝の竹やぶに逃げこんで、黒い雨、放射能を含んだ雨にも濡れずにすんだのです。伯父には母親(私の祖母)と妻と生後五ケ月の男児が居て、自宅で被爆して居たのですが、助けに行けず、私を命がけで守ってくれたので、今の私が有るのです。竹ヤブの中もいっぱいの人々でもう、グチャグチャの人達(失礼ですが)が、うめいて居られ、私は怖くて伯父にしがみついていました。町はみるみる内に大火災になり、その火災から逃がれ、四キロメートル先の農村へと、大勢の人達と逃げて命は助かりました。養父母は当日、大怪我しながら命は助かって居ましたが七年後二人共原爆症ガンで亡くなりました。辛い別れでした。親戚は、当日一三人焼死、後日六人亡くなりました。
私には、事情有って二人の母がいました。養母とは、被爆直後、焼け跡で親戚の骨拾いをして廻りました。
毎日焼け後を歩くので、夜布団に入ると、肌に染みこんだ死臭が臭うのです。養母に「我慢しんさい、あんたは生きとるんじゃけえ!」と諭された。生みの母は事情があり、別の家庭で暮していました。崩れた家の下で「お母ちゃん!」と泣き叫ぶ娘を助けられなかったと泣いて言っていた。「私は生きておれんのよ。鬼の様な親じゃけん」と、悔やみ続け、一ケ月後体の中が腐り、大量の出血で亡くなりました。
私も、被爆後、血便が続き、鼻血は沢山出るし、めまいで倒れる毎日でした。広島の比治山に、ABCC(原爆傷害調査委員会)が出来て、私は研究材料に。ジープで迎えに来て連れて行かれましたが、どんなに体具合が悪くても治療はしてくれなかったです。
成人になっても調子が悪く、流産六回、死産一回等。激しい頭痛。六三才の時、急に歩けなくなり、脊椎に放射能が入りこんでいると(内部被爆)診断されました。六三才~六七歳の間に、首・腰・耳の腫瘍・両手首の神経の病気等々六回の手術しました。両親や身内をガンで亡くし、「いつか自分もガンにかかるのでは?」と不安を抱えて生きて来ましたが、最近、子宮ガンの要精密検査を受けて、不安が現実になって来ました。昔、子供の頃、養母とこんな会話をした事があります。広島平和記念公園の碑に「過ちは、くり返しませぬ」と刻まれたとき私は「アメリカが言う事じゃないの?」と尋ねたら母が「みんなが思わなきゃいけない事なんよ」と言われた事は忘れられません。
昨年五月、私はニューヨークに行きました。
国連の核拡散防止条約(NPT)で被爆者が声を上げようと。
米国では、車イスでデモ行進に加わり、被爆体験を英訳したチラシと一七〇〇羽の折り鶴を米国の市民に配りました。
各国の若者三〇〇人の前でスピーチをしました。世界的に核廃絶の機運が高まる中、若者は戦争の悲惨さを、平和の大事さを考え出しています。私は被爆体験を一人でも多くの方に知って頂きたいと思う様になりました。神戸大学の学生さん達にも話しました。働いている若者に、主婦達に、病院の新従業員さんに、小学生の子供達にも聞いて頂きます。老若男女、「世界から核廃絶を」願っている人は米国でも日本でも沢山居ます。全世界すみずみの人達と、核廃絶を現実の夢として私達、被爆者が生きている間に実現したいと、心から願います。
原爆投下日の、酷い、苦しい体験をしながらも、奇跡的に生きのびて、残留放射線の影響で次々と苦しい病気と闘い乍ら生きている被爆者のいる事を知って下さい。
原爆放射能の被害は被爆七五年後の二〇二〇年が最大に現れるそうです。晩発性障(内部被爆)に、被爆者は六六年経っても恐怖と不安をかかえて生きています。この不安な想いはもう誰にも経験させたくありません。この世から「核」を無くする様一人一人が願い実現させましょう。
原爆で犠牲になられた、お方への鎮魂にしたいです。
原爆犠牲者の、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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