昭和二〇年八月六日午前八時一五分、たった一発の原子爆弾(俗称ピカドン)で人口約三五万の広島市は壊滅した。
私は暁部隊船舶兵で安芸郡鯛尾にいた。営庭を歩いていた。突然閃光と生温かい風。静かな瀬戸内海の漣が騒ぎ出した。かと思うや否や爆弾炸裂の轟音。思わず両耳を押さえて兵舎に逃げ込んだ。
外に出ると純白の巨大な入道雲のようなキノコ雲。キノコの傘はピンクの炎となってむくむくと燃え上っていた。
「新型爆弾で六〇年七〇年草も生えないそうな。通勤電車の中で吊革を持ったまゝ死んだ人がいるらしい」などなどの噂。
広島の西からも東からも火の手があがり、町は焼野が原と化した。そうこうしている内に、被爆者がポンポン舟で運び込まれて来た。黒焦げになった枯木かと思われるような姿。焼けはがれた皮膚がぶらぶらしている人。瀕死の重傷者が次から次と運ばれて来た。目を背けたくなるような大惨状。
収容所は将校集会所(体育館か講堂のような建物)で、ベッドは勿論布団もなければ毛布もない。寝かされたのは葦で編んだ炭俵の上。焼け爛れた皮膚につける薬といえば少量の白いチンク油ぐらいのもので、他に施す術がなかった。
「兵隊さーん、水飲みたい、水下さーい」といって息絶えた。新型爆弾だから水を飲ませたら死ぬといって心を鬼にして飲ませなかった。こんなことになるのなら一滴でも飲ませてあげればよかったのにと悔やまれてならぬ。
当時、山の横腹に防空壕を掘っていたのでそこに遺体を安置した。
一週間後、広島市観音本町、舟入本町、紙屋町等で救援活動。瓦礫の下に死体が見付かった。助け出そうとすると紫色に膨れ上がった皮膚がつるりとむけた。市内には美しい川が何本か流れているが、がらくた物や何十体もの人や馬や牛のパンパンに膨れ上がった死体が浮かんでいた。無数の死体と悪臭、傷つきうめく人。生き地獄でした。
八月一五日。部隊は最前線へ行くべく海田市に集結。汽車を待っていたところ、今日は重大な放送があるとのことで、そのまゝ待機していた。午後三時、玉音放送。ここに事態は一変した。
戦後、脳裏に焼き付いて離れない一枚の写真がある。それは被爆して瀕死の重傷を負いながら乳呑児を抱いて授乳している女性の姿。母の愛は海より深いといわれますが、この崇高な母性愛に深い感銘を受けました。
終戦直後、広島駅を通過しただけで被爆して死んだという情報があった。今日まで健康診断は必ず受け、健康管理には細心の注意を払ってきた。結婚して果して五体の揃った子供が生まれるか悩みに悩んだ。お蔭で二人の娘に恵まれ、内孫外孫夫々男女二人ずつの孫もすくすく育ち、私自身米寿の声を聞く年齢になった。ここまで生かされてきたことを万物に感謝すると共に、体力、気力にあった謝恩の余生を送りたいと思っている。
亡くなられた方々に謹んでご冥福をお祈り申し上げ、長らく闘病されておられる方々の一刻も早いご快復を衷心よりお祈り申し上げています。
閃光に轟音熱線の地獄より
生かされいよよ和平を祈る
和歌山ユネスコ協力では毎年八月一五日を「争いなき日」と定めて「せめて今日一日は争いをなくしましょう」の運動を進めています。
内容は(一)戦没者の冥福を祈って、正午の時報を合図に一分間黙とうを捧げます。(二)世界平和を祈念して各地区の寺が鐘をつきます。この時に集まってくれた方々に、何か簡単なお話をすることにしていました。
今回は原爆の体験談をと思っていたところ、八月九日にNHKテレビ「赤い背中」と題して長崎で被爆した谷口稜暉さんの生活記録を紹介する番組がありました。この方は奇しくも私が修学旅行で原爆の体験談を聞かせて頂いた方でした。その時の思い出と重ね合わせて、鐘つきに来て下さっている方々に紹介した話の概要が以下の通りです。
今年(平成一七年)はあの忌まわしい原子爆弾(俗にピカドンと言われていますが)被爆六〇年目になります。
去る八月九日NHKテレビ午後九時から「赤い背中」(原爆を背負い続けた六〇年)と題して、長崎で被爆した谷口稜暉という方の今日に至る生活記録を紹介した番組がありました。ご覧になった方がおられると思いますが、こんなことが二度とあってはならない貴重な生活記録ですので紹介しておきましょう。
この方は僕が古座高校にいた時、修学旅行で生徒に原爆の体験談を聞かせていただいた方です。
彼は一六歳で被爆しました。
自転車で走行中、突然熱線と爆風で背中から自転車もろとも道路に叩きつけられた。顔を上げると周辺にいた少年たちは塵屑のように飛ばされていた。背中に手をやるとぬるぬるしていた。左手の皮膚が腕から手の先まで熱線ではがれて垂れ下っていた。そばにいた人にその皮膚を切ってもらって、機械油をぬってもらった。背中が焼けて真赤。血が出ないし、痛みも感じない。焼けて壊死(からだの一部が死ぬことです。)の状態であった。
三日後に救護所にたどりついた。
尻のあたりから背中まで肉が腐って悪臭。肉の焼けたいやな臭。ウジ虫がわき、腐った肉に食い入る激痛。まるで焼火箸を押しつけられるような痛みを感じた。俯せのまま身動き一つ出来ず、殺してくれ殺してくれと何回も叫んだ。
熱線、放射線が皮膚を通して肉から骨に達し、遺伝子レベルにまでいためつけ、皮膚の再生能力を奪い、最先端の医療を受けても治らない。
痛くて背中を下にして寝られないし、自動車に乗っても背もたれに背中をあてることも出来ない。こんな状態だから皮膚呼吸も出来ず呼吸障害を起こしている。
今でも背中のところどころは石のような石灰質の堅い塊が出来るので摘出しなければなりません。膿も出てくる。俯せて寝ていたため、肋骨が露出するまでになり、膿のようなものが出る。
暑くなると体温の調整が出来なく、背中が燃えるようにいたみ、体重が五〇キロを越すと背中の瘢痕(傷やできものが治ったあとに残る傷あと薄い幕)が破れ物凄く痛い。
「谷口さんはこういう筆舌に尽くし難い重傷と戦いながら原爆の恐ろしさを講演してまわり、核廃絶を訴えて来られたんですね。」
昭和三一年見合い結婚されました。奥さんは夫の背中を流してあげていた時、大きなやけどのあとを見て大きな衝撃をうけましたが、見てあげるのは自分だけしかないと思い、献身的な介助をしておられます。「素晴らしい奥さんです。」
お孫さん、曾孫さんにも恵まれ、いゝご家庭を築いておられます。
谷口さんの言葉
「生き長らえるとこの苦しい状態を続けなければならないが、また体力も弱り、今まで通りの活動は出来ないが、死ぬまでこの「赤い背中」の話を続けていきたい。
原爆を作らせた者、原爆を作った人間、これを使わせた人間。これを使って喜こんでいる人間、これは絶対許せない」と。
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