母亡き後も、舟入川口町の焼失した家から道一本隔てた空地の小屋で過ごした。近くに避難していた人々は、各々の身内や知人を頼って移っていったが吾が家は、行く当ても無く十月末頃まで留まった。
七十年ぶりに広島を訪れ今まで封じ込めていた被災した荒野の地での体験や出来事がつい此の間の事の様に蘇ってきた。
父が造った小屋は、床には雑草を何重にも敷き重ね、四方は腰を屈めてやっと入れるほどの高さの廃材で支え、屋根は瓦礫の中から拾った焼け爛れたトタン板で雨風を凌いだ。登山が趣味の、父の経験が役にたった様だ。
日の出と共に起床、日没になると姉妹で知っている歌を大声で唱い闇夜の怖さと不安を紛らわして眠りに付く生活。
昭和十六年六月、私達家族五人は、保険会社に勤務していた父の転勤で広島の地に移り住んだ。始めのうちは、温暖で美味しい食べ物が多く穏かな暮らしで快適であった。次第に戦争が激しくなり、あすの命も保証されない毎日の不安から、三人姉妹の長女の私に、百円札を縫い込んだ腹巻きを日常的に巻かせ、「親がいなくなったら、お前が妹達を守り、郷里の東京へ連れて帰れ。」と言い飯盒の使い方、力が無い女の子でも荷物を縛れる方とか重い荷物の運び方等々、今でいえばボーイスカウトのアウトドア訓練の様な特訓をした。
広島市立高女の二年生の私は、昼は学校や家の近くにある機関砲を製造する工場で学徒動員として働き、昼食には海草が殆どの江波だんごを支給される。夜間になって警戒警報のサイレンが鳴ると、学校の近所の生徒は、腕に「市女自衛隊」と記された腕章を巻き、学校に駆け付けるという日常であった。
八月六日は、幸か不幸か材料が不足していたためか電休日と称して休日だった。母が早朝より隣組の当番で護国神社方面(市役所の近く?)出動していたので、私が朝食の仕度をしていた。父は出勤前で蚊帳の中で新聞を読んでいた。舟入(国民)小学校一年生のSは、なぜか此の日登校を嫌がり駄々をこねていた。八時十五分には、動員されていた母と、集団疎開に行っていた次女安江を除いた家族三人は偶然、木造住宅の家の中に居た。家は爆風で倒壊したが結果的には、延焼で全焼した。川口町には、ぽつんぽつんと焼け残ったが倒壊した家屋が江波にかけて残っていた。
今回懐かしの地を訪れ、各所にある慰霊碑を拝し、市女の近くにあった私の職場の工場は偶然休日であったが、大多数の同窓生は、母と同様の地に動員され同じ作業中に犠牲になっておられた事実を知り愕然した。 合掌
八月中頃、次女の安江が疎開先から山田先生に引率され一時帰宅した。母はまだ自力で起きていられ再会を喜んだ。先生は、解散する時「家族が見つからなかったら学校に戻って来るように。」とおっしゃったとのこと、安江も我が家があったであろう方向に歩いていると、ボサボサの髪の毛で汚い服を着てボーッと佇んでいる妹Sを見つけ家族の元に帰ることができた。一人ぼっちの孤児になりかねなかった不安と、家族に出会えた喜びの瞬間を七十才後半、認知症となり混乱した頭のどこかに覚えていて涙乍らに語る日々があった。
一週間ほど家族と過ごしたが住む家も無い数人の児童と一緒に再び疎開先のお寺へ峠を越えて戻って行った。
九月末頃まで疎開先で過ごし小学校は再開されていなかったが各家庭へと帰って来た。今になって思えば、山田先生のご苦労は計り知れない。家族として唯々感謝のみである。
敵機襲来のサイレンが聞こえず不思議に思っていたら、噂で日本の敗戦を知った。十五日から数日過ぎていた。その時、あの恐ろしい機銃掃射で敵機に追いかけられる心配もしなくてよくなったんだとの思いが過った。今でも、「バラバラ。」という銃の音は耳底に残る。
時折、大豆や密殺したであろう牛肉を売りに来る。新型爆弾の毒で、七十五年は草木も生えない、人も死ぬという流言飛語が飛び交ったが、真夏の太陽の恵みで焼け野原から一週間もすると緑の新芽が出る。食べられそうな草は摘み、かぼちゃの葉、芋の蔓等、手あたり次第鉄兜で煮て食べた。水は、道路に吹き出しているものを使う。
倒壊した自宅の材の下敷きになり気を失い父に引きずり出された時の頭の打撲やガラスの切り傷も、その頃になると次第に快方にむかっていた。右半身にガラス破片が二十数ケ所刺っていた。三女は家の中の方にいたので私よりは、多少軽かった。小さい物は自分で手で抜いたり、自然に肉が上がるとポロリと出て来た。薬は救急袋の中に黄色い粉のヨードホルムしか無かった。後頭部の傷だけは大きく、物が当ると痛いので仮救護所で取ってもらったが、今だに触れる方向によっては違和感が残っている。二年くらいたって東京に帰ってから本郷の東大病院に行った。原因が原爆によるガラスの刺し傷だと告げると、担当の医師は、「原爆については、まだ研究されていない。」と、殆ど診もしないでことわられた。放射能には関係がないガラスの刺し傷なのに被爆者差別が此の時心に刺った。
家が倒壊した時、父は家財を持ち出すために残り、私は妹を背負い、指定されていたお寺の避難所へと逃げた。多勢の被災者の群のなかで、気が付いたら跣で血だらけだった。妹は「寒い。」と言い喉が渇わいた。
見知らぬおじさんが水の入った一升瓶から二人に「元気出せよ。」と水を飲ませてくれた。お礼を言わなかった気がする。七十年たってもお礼が言いたいと思う。
九月の初め頃、私はひどい下痢になった。症状が悪化してきたので、フラつき乍ら十二間通りの江波に近い焼け残りの薬局で現の証拠(ゲンノショウコ)を求めた。青黴だらけであったが鉄兜で煎じて飲んだ。薬効があったのか、私の生命力があったのか、翌日の夜には下痢も止り、熱も下った。空を見上げると漆黒の夜空に満月がまぶしかった。あの月の輝きは、今でも脳裏に焼き付いている。生きているんだと実感した一時であった。後日父は被災体験を人に聞かれると、「この子も妻同様、自分の手で焼かなければ。」と覚悟したと語っていた。
やっと郵便が届くようになり、東京への連絡、母の死等父に代わって十四才の私が拙い文章で郷里に知らせた。
九月の中頃を過ぎ、台風が広島に上陸した。現代のような情報は皆無。雨や風が次第に強くなるので、台風が近づいたと察するのみ。
広島は、毎年のように台風が襲来し、水の被害もあるので不安になり、空地の畑の中から近所の半壊した家の押し入れに避難した。遠くから「土手が切れたぞー。」暗夜に叫ぶ声が風音の切れ間から不気味に聞こえる。太田川と、天満川に挟まれた中洲の街、川口町は唯事ではすまない。父は関東大震災の経験もあり、災害時の備えは日常から身に付いているらしく、父娘三人の体を縄で繋ぎ合わせ押し入れの上段にあがった。被災時に持ち出した非常持ち出しの包みを腰に巻き付けた。母の骨壺(軍用非常食の空陶器)を私が抱えて台風の通過を祈った。風雨がパッと止まり、天井が抜けた様な大きな円の中に、薄っらと白い雲が流れ、月が小さく見えた。どのくらいたっただろうか、再び突然風雨が強くなった。幸に今回水は来なかった。後日、聞くところによると、台風の中心が通過し目に入った時の光景であったようだ。
父は本社との連絡や会社再建への段取り等、奔走していた。近所の日本銀行の社宅の中には私の同級生もいて、とても親しくしていたが、ご家族六人のうち三人が亡くなられた。お母様は、母と同様取り壊わし作業で幼いお子様二人を連れて参加されて亡くなった。
早くから日本銀行には、手厚い援助が差しのべられていた様子であったが、父の会社は、微兵保険会社、敗戦では、会社そのものも大事であったはず、東京本社からの支援はなかなか受けられないと嘆いていた。播屋町にあった社屋自体は全焼したが、金庫にコップ一杯の水を置いていたので桐の引き出しに保管していた書類は焼失を免れたと父は自慢していた。今でもその桐の引き出しは吾が家の本棚に鎮座している。
十月も半ばになると、秋風が身に堪えるようになった。本社からの指示もあったであろう、海田市町支部の方のお世話で海田市新町の呉服屋の旧店舗を借り、階下は生命保険会社にその屋根裏部屋を私達家族の住居にと決めた。学校も私は、県立海田高女に、妹達は町の小学校に転校した。
東京からは、絶悪の交通事情の中、父方からは従弟の医師や、伯父の病院(三月十日の空襲で焼失)の看護婦長さん、母方からは祖父が様子を見に来てくれた。乗車券の入手も困難で窓から乗り降りする時代、長時間の汽車旅、さぞ大変であったろうと、感謝している。
海田市では魚屋のおばさんが、魚の捌き方や調理を教えてくれた。食糧不足ではあったが、人間らしい生活をとり戻せた地である。
七十年たった今も忘れていない想い出の数々、厳しい状況の中であっても温かい人々との出会いに感謝。私達家族は一人も行くえ不明にならなかったしあわせ、七十年間戦争の無い平和日本に生きているしあわせ、八十三才の今日、杖をつき乍らでも広島にこられたしあわせをかみしめている。
二〇一四年十月記 並木佳世子 八三才
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