孫で県外在住である私が、祖父が広島の原爆で被爆したということは、おそらく小学生の頃には知っていたと思います。
小学六年生の時、確か夏休みか冬休みだったかと思うのですが、
「戦争を体験した人から話を聞いて発表する」
という宿題が出たため、当時の私は
「おじいちゃんが被爆したと言ってたから、おじいちゃんに聞けばいいんだ」
と、休みを利用して祖父母の家に行き、何の気もなく「宿題が出たから原爆の話、して!」といいました。
この時祖父が語ってくれたことを書き留めた宿題の原稿は既にありませんが、内容は以下の通りでした。
・祖父は憲兵で、憲兵は「鬼より怖い」と恐れられていた
・憲兵になった理由は、兵隊として海外に行ったら死ぬ可能性が高いと考えたため、国内配属の憲兵を選んだ
・被爆時、憲兵が詰めている建物にいたが、自分はすぐ背中にあった壁にかばわれて助かった。しばらく真っ暗で何も見えず、視界が広がったときには二~三人を残して誰もいなかった。
・それから山の上に避難したが、途中たくさんの人が死んでいた。
・避難して、そこでお茶をもらったが吐いた。吐いた人は助かった。吐かなかった人はその後亡くなった。
夏休みか冬休みが終わり、社会科の歴史、ちょうど第二次世界大戦の内容を学んでいる時、各自この宿題を発表することになりました。もちろん私も発表し、発表後その原稿は先生に提出しました。
そしてその次の社会の授業では、いよいよ終戦付近の内容となりました。広島長崎の原爆のことも、教科書に記載されています。
この時先生は私を指名し、もう一度宿題の原稿を読むように言われました。理由は忘れましたが、原稿もなぜか手元にありました。
(平成二一年六月、祖父・折本敏美口述)
旧大野町出身の祖父は下士官候補で東京の憲兵学校に入り、繰上げで一九四五年七月に卒業し、兵長として広島憲兵分隊に配属されました。二〇歳の時のことです。
疎開で生徒がいなくなった光道国民学校を憲兵隊が使用していました。祖父はその近くに下宿をしていたそうです。
配属後、ちょうど人事から
「誰か廿日市憲兵分駐所に希望がないか」
という話が出たため、祖父は自分の家に近い廿日市憲兵分駐所への転属を希望し、それが通ったため、転属の申告(報告のことを、当時はこう表現していたそうです)を上官にしたのが昭和二〇年八月六日の朝でした。
光道館の竣工も祖父の誕生日も、同じ大正一三年九月です。
この事を知ったのはごく最近(平成二一年六月)のことですが、祖父は
「同い年だから、校舎は自分を助けてくれたのかもしれない。」
と驚いていました。
祖父と同い年ですから、被爆時点で既に光道館も築二〇年が経過してはいましたが、それでも当時はモダンな建物でした。
真ん中の筒型の部分がちょうど職員室にあたる部屋で、憲兵隊が使用していた時は、その二階部分が隊長の部屋となっていたそうです。
祖父はその日の朝、その部屋で隊長に転属の申告をしました。
この隊長については
「下の名前は知らないが、田中隊長と呼んでいた」
とのことなので、おそらく現在ネット上で掲載されている広島原爆戦災誌の記載から、田中要次大尉と思われます。
(http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai1.pdf 一八ページ目)
挨拶をすると隊長は祖父に
「ちょうど今から、一階で不発爆弾の処理についての講義をするから、それを聞いていけ」
と言ったので、祖父はその命に従い、一階に下りて講義が行われる部屋に入りました。
隊長は、祖父より少し遅れて階段を降りていきます。
一階のその部屋は、人でいっぱいでした。
窓際の席は、偉い人たちが座っていました。八月で暑いので、風があたる良い席に上官がいたそうです。(結果として、これは生死を分けたのかもしれません)
席は殆ど空いていないので、祖父は部屋の一番後ろ、壁に背中がくっつきそうなほど後ろの、真ん中の席に座ることにしました。
これは、産業奨励館(後の原爆ドーム)方向を背にして座ることになります。
そして祖父が席に腰掛けた瞬間、爆発が起きたのです。
青白い光が一瞬ピカッと光ると同時に、ドーンと大きな音がしたので、祖父は校舎の上に爆弾が落とされたのだと思いました。
そして一分近く真っ暗闇になりました。粉塵等が立ち上がったためです。
この時点で祖父の後頭部は血まみれになるほどの怪我をしており、後に『横7センチ、縦5センチの後頭部挫傷』という診断を受けています。(この話を聞くときに祖父の後頭部を触ったところ、不自然な凹凸がありました。)
それからしばらくして少しずつ明るくなったので周りを見わたすと、動ける(生きていると思われる、ということだと思います)人間は自分が座ろうとしていた辺りに数人いただけでした。
窓際は、誰もいません。
爆心地に背を向け、ぴたりと背をつけていた壁が盾になり、また祖父がいた部屋は建物中央付近で、その東側にあった教室が爆風や放射能を先に受けていることになります。
祖父のいた部屋は、ある程度に原爆の威力が弱まっていたのではないかと推測しています。
田中隊長は、階段を降りてすぐの廊下で爆死されていたそうです。
隊長が「講義を聞いていけ」といわなければ、祖父はそのまま外に出て廿日市の分駐所に向かっていたはずなので、祖父も助からなかったでしょう。
この後、山手にある憲兵隊の防空壕に避難に向かいました。
道中建物は焼け、何人か人を助けたりしました。
また、中広のあたりで黒い雨を浴びました。黒い雨とは、普通の雨に黒いすすを混ぜたようなものでした。本人は「一〇時か十一時頃だったのではないだろうか」とのことです。
夕方までに到着したその防空壕は、山手橋を北西に伸ばし、現在の山陽新幹線と交差するあたりにありました。
(終戦後もしばらくこの防空壕は残っていましたが、新幹線開通工事の折に壊されています。)
この時にはもうのどが渇くし、口の中も気持ち悪くて仕方がないので、その近くにあったカトウさんという家のおばさんに頼んで番茶を入れてもらい、そして吐きました。(気持ち悪いので、自分で吐いたようです)それを二回ほど繰り返しました。吐き出したものは黒かったそうです。
祖父と同じように吐いた人は、その後も命は助かったようです。
後にABCCの健康調査を受けた時、祖父には原爆症らしき異常がないため、
「光道館で被爆したというのは本当か」
と聞かれました。
このため、黒いものを吐いた話をすると、
「それがよかった。それが今の健康の元になっている。」
という内容のことを言われたそうです。
吐き出した黒いものに混じっていたのは、放射能を帯びた粉塵でした。
それを体から吐き出していたということは、結果的に放射能に汚染されたものを体の外に出していた、ということになったのでしょうし、また吐くだけの力が残っていた、つまり内臓が機能する状態だったともいえると思います。
翌日からは、とにかく天満川や本川は死体の山でした。
川の水位の変化に合わせて、死体が上がったり下がったりで、その死体の皮膚が茶褐色になり、腐敗して蝿はたかるし、臭いがひどいしでわやくちゃだったそうです。
祖父は被爆後、二週間ほど井口の陸軍病院の分院に通い、治療を受けていましたが、その間に終戦を迎えました。
一般兵は終戦をもって解散となりましたが、終戦直後の整理で(一般兵、特に将校の食料持ち逃げ等を取り締まるため)祖父を含めた憲兵はすぐには任を解かれず、九月二六日になって憲兵も解散となったそうです。
被爆後数年は原爆症らしき症状がありましたが、その時白血病等で命を落とすことはなく、平成二一年七月二九日、八四歳で永眠しました。
※祖父の被爆者手帳の爆心地からの距離の欄には、「 .五 キロメートル」と記載されていました。
五キロメートル?そんなに遠かったっけ?と思いきや、よく見ると「 .五 キロメートル」。コンマがありました。
つまり、爆心地から五〇〇メートル地点という認定を受けているようです。
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ここまで、祖父が亡くなった前後に、祖父が語った話を記したものです。(レポートのような形ですが)
祖父が少し前に、広島で個人のホームページを持つ方とふとしたきっかけで交流を持ち、死の直前にそのホームページにこの内容を掲載していただきました。
祖父が元気な頃は、冒頭の時、私が小学生の頃の宿題で頼んだ時以外は、原爆について語ることはありませんでした。
こうやって語ったのは祖父が亡くなる一~二か月前です。
これ以外にも語ってくれたこともありますし(憲兵の学校から広島に戻る列車に乗車中、静岡付近で空襲にあったこと)、亡くなるまで語らなかったこともあるのだと思います。
それは、思い出すことも辛いのだと、大人になってわかります。
何十年たっても語るのも辛いようなことが、二度と人の手によって引き起こされないことを切に願います。
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