縫部正康が県工一年生の被爆死の悲惨状況を書けた理由
一、八月六日 朝僕たちの弁当作りをよく見ていた
二、八月六日 警戒警報発令。縫部正康も聞いていた
三、八月七日 県工(当時千田町)で県工一年生の行き場所を聞く
四、八月七日 弟寿彦(県工一年生)の弁当箱見つかる
五、八月八日 弟寿彦、見つかる
昭和二〇年八月六日
私縫部正康一五才 県工電気科三年生
弟縫部寿彦一二才 県工電気科一年生
八月六日、朝母タキノは私たちの弁当を作っている。当時は、食物がない時代、母の弁当作りを良く見ていた。(後で役に立つ)
母から、早く学校へ行きなさい(父は軍の動員で家にいない)。
弟寿彦、履く物がない、学校休みたい。
母、何を云うか、学校へ行きなさい。
弟、寿彦、ハブテル。
母、私の地下足袋を履いて行け。
弟は学校へ。
学校(県工)へもう少しで着く頃、警戒警報発令(学生は家へ帰ることとなっている)。皆帰ろう、帰ろう、そのうち警戒警報解除となる。皆学校へ行く。
学校(県工)に着く。まもなく担当の先生から、今日は広島県庁附近の家屋疎開の手伝のため出発する。病気の人を残して、出発する。
広島県庁附近へ着く。先生から、弁当は一ヵ所に集めて置けと。皆一ヵ所に、まとめて置く。
先生から、さあ家屋疎開の作業に、かかれとの指示がある。間もなく八時一五分、原子爆弾がさくれつする。
熱い熱い、これ、なんかいのー、家も火を吹く。もう居ても立っても、おれん。着てるものにも火が付く。何処へ逃げてよいか、分からん。体は大火傷、無意識に、水、水、河へ河へと逃げる、逃げる、逃げる。でも逃げる場所がない。そのうち、本川橋に着く。水を求めて、河へ下りる石段がある。無意識に河へ下りる石段へ向う。皆、石段へ、石段へ後から後から、大火傷をした人が、下りて、石段が、いっぱいになる。身動きが出来ない。でも次から次へ、その石段へ人、人、人。一番先に着いた人が、河の中に入った。その瞬間、苦しみ、苦しみ、その姿を見ることが出来ない苦しみ方。その次の人は、これを見て、トテモ、トテモ、水の中に入れない。
それでも、石段には次から次へと、河の方へと降りる。身動きが取れない。この場所も、火災等がダンダン強烈になる。でも逃げることが出来ない、人が多くて身動きが取れない。体に着けているものも焼けてくる。そのうち、気を失い死んで行く。
八月七日、八月八日
縫部正康が見た状況
本川橋附近の河へ降りる石段。
身に付けていたもの頭の髪も、全部焼けてない。体は膨れてパンパン、男か女か区別出来ない。
八月八日
私正康と母、父、三人で寿彦の弁当箱のあった所へ行く。兵隊さんが、ツルハシで、被爆死者を集め焼却している。それを見ていた母タキノが、我の子だーヤメテくれ。私正康は弟寿彦と思えない。どうしても分らない。シカシ、マキギハンの一部が寿彦の膝の間に挟まり、そこだけ焼けずに残っていた。縫部寿まで読めた。縫部寿彦と確認出来た。
原爆真下の状況で、考えられること
一、県工一年生の弁当箱があった。どうして爆風で飛ばされなかったか(私の弟寿彦の弁当箱を見付けることが出来た)。原子爆弾の爆風は、爆発の真下は爆風は小さかったと思われる。しかし、県工、千田町は建物は倒れ(爆風で倒れた)、弁当箱を包んだ布地は、高温で、焼けたか、ぜんぜんない。
二、弟寿彦県工電気科一年生のマキギハンが足の膝に挟まった。ところが残っていた。弟 寿彦の名前があり確認出来た。マキギハンが足の膝に挟まって残っていたと、云うことは、被爆し、河への石段まで、マキギハンを身につけていた。他の部分は全部焼けて見ることが出来ない。河への石段が焼けたものである。被爆死者全員、何も身につけてない。この場所で全部焼けたものと思われる。
縫部正康が書いた記録での言葉の説明が、必要と思われるもの
一、家屋疎開
敵からの空爆等で、建物火災が起きた時、その延焼を、防ぐため、密集した、建物を、取りのぞく、作業。
二、トビグチ
物をヒッカケて、移動する道具
三、マキギハン(ゲートル)とも云う
足のフクラハギに巻き付けて、足をひきしめるための、布等で、何かの作業するときに、使用したもの。
四、警戒警報
敵の飛行機が空しゅうに来るケハイがしたとき、警戒するよう警報を出すこと。
|