まえがき
弟 故本田重雄 享年七八才
昭和二〇年八月六日
広島県立広島第一中学一年生十六学級の時被爆 八七六メートル 奇跡的に助かる
平成二二年 西暦二〇一〇年三月七日 没
死因 肺ガン 箕面市立病院 入院六八日間
ガラシアホスピス病院 入院二一日間
三ヶ月足らず入院して亡くなる
姉 本田美代子 八三才
昭和二〇年八月六日
広島県立広島第一高等女学校三年中組
古田町 広島航空機で被爆 三・五キロメートル 諸病あれど健在
弟の被爆体験談(愛しき人よ弟よ)を書く
故 本田重雄 七八才(平成二六年一月二〇日 姉書く)
愛しき人よ 弟よ
八月六日朝八時一五分、当時一中一年生の半分の者は校外の雑魚場町(現国泰寺)の建物疎開跡の後片付けに行き、残りのクラスは一階建校舎内教室で待機中であった。一年生は三〇九人であった。弟は一六学級の窓側の席であった。前夜も七時半頃迄元安川新橋の川岸で友達と泳いでいて、足の裏を怪我していたのを靴を脱いで下に屈(かが)んで見ていた時であった。
突如、爆発閃光に襲われ校舎の下敷きになり、真暗闇の重圧の中、気がついた時は、天井は落ち柱が背中にのしかかり、息も苦しい、口の中も埃(ホコリ)で一杯、周囲からは友人の助けてくれ!の叫び声で地獄であった。身動きが出来ない中、必死でもがき幼い時に病死した父に(五日市小学校教師)!お父ちゃん助けて!と叫んだ。
そうしたら一条の光が差し込んで来た。アッ太陽の光だ、これはどこかに隙間があると直感し、机の間にはさまれた体を後にずらしてみたら、ずるずると動けて、必死でもがいて板の間から上に抜け出ることが出来た。
あの時の嬉しさは、譬(タト)え様がなかったそうだ。不思議な御蔭で助かった。と思ったが薄暗い下界はこの世の物とは思えない状態で、友達の叫び声に、助け様としても右肩を柱で打って動かないので、左手で自分の出た穴の板を引き除き何人かを引っ張り出した。その内周りから火が燃え出し煙が襲いかかり、身に危険を感じ離れざるを得なくなり、断腸の思いで離れた。外は大火傷の生徒ばかり、君は火傷はないのか、水をくれ、プールへ連れて行ってくれと、阿鼻叫喚であった。
助かって無傷な者は少なく皆で南へ逃げたが道は無く、片方が素足なので熱い上を電車通りを南へ向かいその内皆、バラバラになり、たった一人になった。助けを求める怪我人をどうする事も出来ず、自分も何度となく嘔吐を繰り返し、黄色い液体を吐き乍ら、倒れ乍ら立ち上がり、専売局の方へ着いた。南の海、宇品へ行くか、東の方へ行くか、迷ったあげく大河方面へ逃げて、疲れて砂糖きび畠に倒れ込んで数時間眠っていた。おじさんがオイオイと起こして下さり、近くの大河小学校に連れて行って下さった。
一杯の負傷者が横たわる教室の中で横になっていたが、兵隊さんがとてもよくして下さり、おにぎりも下さった。其処へ毎日身内を探しに来る人達がおられ、その中に山県郡壬生町(現北広島町壬生)の人が居られたので、僕は父の実家が壬生ですから伯父に重雄が助かって此処に居ると伝えて下さいと伝言した。
その人は伯父の家に行き、甥の中学生の人が、間違えて愛宕(あたご)町の小学校へ収容されておられると告げられ、それ迄母と弟を毎日探しに広島市へ自転車で出ていて下さった壬生の伯父と戸山村(現沼田町戸山)の伯父は、急ぎ探し廻り、結局大河小学校に居た弟を見つけ、火傷もしていない上に奇跡的に生きていた弟を自転車に乗せ助けて下さった。あれはお盆頃の様に記憶している。その頃には母が火傷で日赤へ逃げ倒れ、小屋浦へ移され、亡くなっていた事が解っていたので、弟も悲痛な思いで、私がお世話になっている戸山村の母の姉の嫁ぎ先の東家へ自転車に乗せられたり歩いたりで連れて来て下さった。市内から五里(二〇キロメートル)の山道を東の伯父は血の繋がらない弟を助け出して下さった。
!弟が生きていた!どんなに嬉しかったか。伯父達の御蔭と亡き父の御守護に感謝したことか。しかし慈悲深い優しかった母(袋町国民学校教師)が亡くなってしまい、弟も私も毎日ウツ状態であった。弟の下着を縫う為に戸山に少し疎開させてあった着物の裏の木綿の白生地で縫い上げた。弟一三才、私一四才であった。
戸山に着いて二週間位経ってから、弟の体調が悪くなり、頭が痛い、早く歩けない、御飯を食べなくなり出した。二人共無口になり、笑う事を忘れて、母恋しさに悲しみを耐え忍んだ。毎夜寝床の中で泣いていた。弟の体調は九月に入りだんだん悪くなり、床から起き上がれなくなって来た。私は心配で付ききりで看病した。熱は三九度になり重病人になってきた。伯母は血縁なのでとても一生懸命に看て下さり、伯父も後に戸山村長になった人で、医者をつけて下さり費用は支払って下さった。弟の肩が痛い理由は校舎の柱の打撲による急性肋膜炎と診断されたけど、あの当時薬品も無く、医者様の出される薬は胃薬であったかと思う。どの家も親戚の被災者が助けられ寝込んでいたが、皆同じ様に体調が悪くなり、鼻血や歯ぐきから血を出し、髪の毛が脱け出し、亡くなって行った。
私の記憶も定かではないが九月中旬に入ってから三九・五度の熱にヤセ細り、喉のリンパ腺が腫れ上がり、水を飲むのもやっととなり、医者に後数日と伝えられたのが本人に聞こえ、姉ちゃん僕は!死にとうない!と言うので、私は必死で!死にゃせんよ!と励まして側を離れない様にした。やがて或る日午後から鼻血が大量に出だしたので、伯母が缶を渡して下さり、それに血を入れていたが鼻血が固まり出し、引っ張ると長い血管の様になり、体中に小さい紫斑が出だした。伯母の子供が医者を呼びに走り、飛んで来られた医者は、今晩は駄目ですと告げられ急性白血病ですと云われた。弟の目は魚が腐った時の様な白い目となり、口も効けなくなり、両足をガイガイ動かして辛そうであった。人間は足から駄目になる、と知ったのはその時である。
とにかく伯母と私は足をさすり、ふくらはぎをさすり一晩中さすり続けた。息は止まる事なく、弟は生き抜いてくれた。夜が明け、熱を計ると三八度に下がり、喉の腫れが引いていた。伯母は助かるかも知れんと二人で喜んだ。奇跡は二度目である。大量の鼻血で喉の毒が出たのかも知れない。肘にあったカスリ傷が腫瘍の様になり少しの傷が、皆、腫瘍になっていたが少しずつ元気になってくれた。
もし弟がいなかったならば私は生きては行けないと思っていたから、希望が湧いて来たが、当時は食糧難でお米も百姓と云えども供出させられて無い時代。伯父はどこからともなく米を仕入れて、伯母は御飯を炊く途中の重湯をすくい取り、弟に力をつける為尽くして下さった。重湯は私がスプーンで口元へ流し込み、元気になってくれる様祈る毎日であった。
やがてお粥と梅干しになり、次第に力がついてきて少しずつ元気になり出した。白血病に高カロリーの栄養を与えると良くないとかと云う事が解ったが、あの時代食糧もなく、弟には幸運であったのだ。体中垢だらけになったが、垢の出る人は助かるとか。髪の毛も抜けて頭はツルツルになり、青白い顔の弱々しい体で自分でトイレに立てる様になったのは一一月の中旬頃だったと思う。急性原爆症であったのだ。
被爆体験談はこれ迄となるが、両親のいない子供が生き残り、奈落の底につき落とされてからの弱い体で茨の道なき道を這い登る人生は大変であった。
その年の一二月、色々御世話になり命を助けて頂いた親戚は母の姉の嫁ぎ先であり、私達の直系の父の実家へ子供二人を渡す事となり、晩秋の或日山県郡壬生町へと自転車に乗せられたり歩いたりして山県郡壬生町の伯父と安佐郡戸山村の伯父に連れられて、一日中かかって田舎へ行った。母は生前、二人の子供を残して死ぬ様な気がするからと、自分の姉に貯金通帳を預け、二人の子が大学を卒業する迄あるからと云って原爆の一ヶ月位前に戸山村まで行った事があった。その通帳は一銭も使わずそっくり壬生町の伯父に渡された。母は、私達が一中と県女に通学する為疎開出来ず、犠牲となってしまったのだ。父の実家は大百姓、山林も沢山の旧家であり、伯父は壬生町会議員であったが当時はボランティアであり、収入は米と木材を売るのみであった。父の兄に当たる人で子沢山な家族であった所へ私達が加わり、大家族となった。かくして弟と私は又々親戚の御厄介になり御迷惑をかける事になった。
昭和二一年春四月から一中と県女にさよならも云えず転校させられた。山奥の県境に近い、新庄中学校、新庄高等女学校へ転入学、寄宿舎へ入寮させられた。当時は日本中、食糧難、物資不足、貨幣価値も下がり、困難な時代、年中空腹、貧乏と忍耐、辛抱、努力を体験した青春であり、人生で一番辛い時期であったが、国民の大方が体験した、戦後の混沌の時代であった。
若さ故に、乗り越えられた。勉学する楽しみが一番の癒しであった。友垣も出来た。かくして新庄高等学校を卒業した訳であるが、大学へ進みたいが資金が無い、支援して下さる人も無く、光の見えない生活に追い込まれ、弟は恩師の下宿先に一年間も同居させて下さり、一浪して勉学した事は生涯忘れられない御恩であり御蔭であった。弟は次の年、大阪へ出て奨学金を借りて、先ず短大を卒業し、国家公務員試験に通り大阪大学に勤務し、働き乍ら夜は関西大学に通学した。その間結婚もして二人で働き乍ら弟は勉強を続けた。
関西大学に来られる大阪大学の教授に卒業の時、君は優秀だから大阪大学の大学院へ進めと云われた時程、学資の捻出が出来ない境遇であり、両親が居ない、不甲斐無い姉も援助出来ない辛さを申し訳なく思った事はない。弟とは一才五ヶ月違いの年差である。体が弱いから細く長く生きると云い、自分の体を大事にし乍ら国家公務員を務め上げた。勤勉で誠実、努力家であった。
弟は自分の血液検査の結果を表記して長年克明に記入し貧血を気にして自己管理していた。
平成一七年NHKのテレビ放映に!命の記録!と云うタイトルで八月六日夜一時間位放映された時に出たのは弟である。一中一年生き残り、三〇九人中当時六人生存の中の二人が映った。NHKの人が大阪箕面市迄何度も来られ撮影された。
原爆で爆心より八七六メートルの校舎の下敷きとなり、奇跡的に助かるという御蔭と、多く人に助けて頂いた御蔭で生きのびたが、身体的には壮絶な人生であった。定年後は次々に襲い来る多重癌と闘い、年中貧血、骨髄異形成症候群、基底細胞癌、前立腺癌、大腸ポリープ癌を克服したが、最後に、肺ガンが手遅れとなり、たったの三ヶ月で昇天してしまった。平成二二年三月七日没。七八才の寿命であった。現在の医療は大病院は、三ヶ月しか治療せず、もう助からないと云う人にも告知すると云う酷い制度である。担当医に告知はしないで下さいとお願いしたのに後一年はもちませんと言われ、本人はどんどん追い込まれ落ち込み、力を無くし、高額なホスピス病院へ転院させられた。即麻酔を点滴に入れられ出して、たった二一日間程、ターミナルケア病院に居て、安楽死させられた。看護婦さんは白衣の天使であった。助かると思う人には癌の告知は勇気を与えるが、もう手の施し様の無い癌患者に告知して、生きる希望を断ち切ると云う医療に、私は欺瞞を拭い切れず、医学には「仁」は無いのかと不満に思う訳である。
優しい弟であった。意志は強く、真面目で人に迷惑をかけず遠慮深く、実に善良に人生を全うした人、子供の時に両親を失うと云う運命に、唯々我慢し、努力して道を切り開いた人、弟ながら立派な人間であった。残された妻は施設に入った。
戦争は人災であり、多くの人類を不幸にする。
世界平和を祈念して、拙い文章を擱筆する。
平成二六年一月二〇日
姉 本田美代子 八二才
弟 本田重雄 七八才没 平成二六年一月二〇日 作詞
弟よ
愛(いと)しき人よ 弟よ
善(よ)き弟は 逝きませり
この淋しさを 耐え忍び
老いらくの身の うら悲し
不束(ふつつか)な姉を 助け賜い
元気かいなと 神の声
あの優しかりき弟は
もう何処にも居ない
天国の慈母に抱(いだ)かれて
安らかに眠り賜えな
縁(えにし)なりし絆 有難う
姉 本田美代子
あとがき
愛しい弟を失い、私は生きる希望を失いました。思えば弟の高校時代は私が学資を支援し、年を重ねてからは弟が兄になった様に親切に支援してくれました。生前は、大阪から電話で一〇日おきに!元気かいな!と励ましてくれて、あれこれ指示してくれました。子供は出来ず夫婦で国家公務員を勤め、定年後はゆったり生活していました。優しかった弟を思い出し悲哀に浸る事も多いです。
天国で安らかに眠り賜えと祈り、仏様に供養する事が私に残された勤めであり生かされてあるを感謝して、人の為に生きて行くつもりであります。
|