私の母三浦アヤ子(大正十五年生)当時十九才、島根県益田の者で鉄道広島機関区益田駅勤務でした。
当時女性車掌は三人いました。
成績は良く、日々勉強に励み、昇格試験をこなしていました。
江津、浜田の連隊にお召列車で「秩父の宮」の視察の折先導役をおゝせつかりました。
下賜された「白い絹手袋」を小脇にはさみデッキの手すりを持っていて、この大切な手袋を落としそうになり、思わず手をはなして列車から落ち頭を裂傷するも、手袋の事しか考えてなかったとか。
広島原爆投下当日、夜中の十二時に「緊急呼出」を受け、広島発津和野経由の列車に益田駅からたゞ一人乗車。「この事は誰にも云うな!親にも話すな!黙って墓場迄持って行け!」と口止めされたそうです。
車内の乗客は死者か、半死傷者か判別出来ず、たゞ「水をくれ!」のうめき声だけでした。が水を与える事も話しかけることも禁止され「見張っておれ!」に何をするすべもなく、隙間からみえる駅に駅員は居ず特高と憲兵が点在するだけでした。
どこ迄行ったかはわからず翌朝帰宅を許されたそうです。
戦後の兵隊の復員で職を解かれ、イトコと結婚、四人の子供に恵まれるも体調不良で、いつも「体がだるい」と家事の合間は横になっていました。
二次被爆とでもいうようなことがあるかと家族は案じていました。
これは小学四年生の長女の私(昭和二十三年生れ)に原爆投下時と慰霊祭のテレビ画面を見ていた母(当時三十才位)が「この話は墓場まで持って行く」との告白でした。
一方私はただ「恐しい!」と聞き、後々改めて幾度たずねても決して話してくれませんでした。
妹達も父さえも一切知りません。
母は七十才で胃ガンで亡くなるも二度と口に出すことなく心残りです。
よく心が折れなかったとの思いです。
広島市内の電車は即走らせたそうで、母のかゝわった列車内の方々はその後どうなったのか?
まだ戦時中の事で如何ようにも事が運べたのではないかと一人で重く受け止め悩んで居ます。
私は長崎の投下後の惨状を見て広島の館の方へは足が向かないのです。
慰霊祭へは身内の者と共に参加した年もあります。
今、ここにお伝え出来る所を知り届けます。
どなたかこの事の前後を御存知の方は居られませんか?教えて下さい。
そしてその方達の慰霊をしてあげて下さい。
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