母、安永リツエ(当時十九歳)は昭和十七年五月に島根県鹿足郡藏木村から広島市皆実町の広島陸軍被服支廠へ動員従事のため当時の旭町の寄宿舎へ入寮したそうです。
当時、被服支廠へは近隣の広島、島根、山口鳥取地域から多くの女性たちが動員従事されていたそうです。
また戦後も多くの女性友達と長いお付き合いが有った様です。母が亡くなる前には、そのお友達と小旅行に行かれ昔話に花を咲かせていたと、話を聞いた事があります。
原爆投下の日、昭和二十年八月六日当日は広島市皆實町の広島陸軍被服支廠において、当時間に原子爆弾による被爆をした(被爆距離三・〇キロメートル)と聞いています。
その当時の状況は母からは聞いたことは有りませんでした。ただ一度だけ、原爆被爆者認定を受ける資料作成の時に、本当に酷い世界で思い出すのも、話すのも嫌だと言っていたのを思い出します。
被爆直後は酷い現状を目の当たりにし、あまり語ろうとしませんし、覚えていなかったのかもしれません。その後主任から自宅に帰るように言われ、友人達何人かと山口方面へ歩いて、それぞれの実家へ帰ったとのことでした。
実家では田舎でもあり、被爆のことは、原爆症と言う風評もあり戦後長くに誰にも言うことなく沈黙していたようです。
その様な戦後の中で軍人であった父と結婚し、母のその胸の内を理解されて共に支えあって居られたのではないかと想像します。
この写真は母の一番幸せであったであろうと思われる顔の写真です。
父と何時までも幸せな時間を保存させてあげたいと思います。
被爆時の名前 長嶺 リツエ(二十二歳)
被爆時の住所 広島市旭町
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