私は被爆時、広島陸軍糧秣支廠の主計中尉として、広島宇品から己斐小学校に移転していた支廠の検査科に勤務していました。
官給材料が正しく使用されているかどうかをチェックする為の化学分析室になっていた小学校の理科室にいて、八時一五分、八月六日、昭和二〇年、突如窓外が真黄となり、しばらくしてドーンという音と共にガラスの破片と共に突風が吹込んできました。ガラスの破片が顔を傷つけ、鮮血が流れたが、室内を眺めると窓ガラスの破片、窓枠などの破片が床に散乱していて、又室内のガラス器具が倒れて、こなごなになっており、破片に注意しながら室外に逃げ出した。
光と、次いで爆風に、焼夷弾に狙われたと感じたが、光と音の間隔が多少長かったし、どんな爆弾なのか分らなかった。小学校は学童はすでに田舎に疎開しており、講堂が広い事務室となっていたが、こゝも書類が散乱していた。ふと屋根を見ると煙が立ち火事になりかけたので、手押しの簡単な消火器で放水を始めたが、俄かにぽつりぽつりと黒色の雨が降って来た。べったりとしたものではなかったが、水滴の黒い染はあとあとも取れることはなかった。
己斐小学校は、戦災時の避難場所になっていたので、時間の経過とともに、市内で被爆した者達が、盛夏で薄いシャツがぼろぼろに破け、皮膚がべろりと垂れて、両手首を招くように垂れて、跣足でこの小学校を頼ってやって来た。
使用されていなかった教室の散乱したガラス、木片などを片付け掃除して、罹災者を収容していった。列べ列べていったが、場所がなくなり、これ以上収容不能と思った時、この小学校から上り坂で裏の民家に逃れるよう伝えていた。
暑い夜であった。皆水を求めて井戸の周辺に集って倒れていたが、翌朝、見廻ると半数近い人がすでに息絶えていた。
夏のことゝて、死人はすぐに膨張して「ぽんぽこりん」となり、四跂をあげ動物の死体をみるようであった。
低学年の女子高生が、講堂入口の石段の側に菰をかけられて寝ていたが、顔はさして火傷はしてなく、菰をはづして見ると全身火傷しており、軍医が離れた教室で医療を行っていたので、治療を依頼したが、極端に薬不足、火傷には赤チンキをガーゼにつけて、ぽんぽんと申訳程度にたゝくだけであった。この小女も二~三日して小生の顔をみて兵隊さんと言って起きあがるので、椅子に坐るよう肩に手をかけようとしたが、火傷がひどく、押えられないうちに、坐ると同時に、頭をがっくりと垂れ絶命した。これ等のことは終世忘れぬであろう。 |