一九四五年八月六日、私は、広島市江波町の三菱造船所のバラックの中にいた。突然何百ものマグネシウムのフラッシュを焚いたような青白い光が走り、頭、顔の右側に熱い光線をあびた。「あっ、やけどしたかな」と思って、手をあてた。つぎの瞬間、「もぐれ」と誰いうとなく叫んで、同室のものは、いっせいに机の下へもぐった。何秒か間をおいて、轟音とともに強い突風がおそってきた。ガラス窓や壁の板切れが上から降ってきた。空襲で、近くに爆弾が落ちたと思った。物音が静まるのを待って立ちあがってみると、五〇〇メートルばかり前にあった低い岡(江波山)の向うに、白い煙の柱が、もくもくと入道雲のように盛り上がっていくのが見えた。そのあと夕方までの記憶はない。夕方になって私は、宮島へ渡る船に乗り、宮島からまた連絡船に乗って宮島口へ渡った。自宅は広島の西四キロメートルばかりのところにあった。井口村だ。帰りついたのはもう暗くなるころだった。広島の街がまっ赤な火に包まれ夜中燃えつづけていた。まるで巨大な炎の蛇であった。
翌日、私は広島へ出た。三菱の工場へ行く義務があると思っていた。同組生と三人連れだった。己斐の駅で電車をおりると私は夢を見ているような気持だった。「広島がない!」「なんにもない!」何が何だかわからなかった。昨日江波から見たときは、広島がそっくり焼けているなどとは、とても考えられなかった。きのうまであった街がないのだ。
どこをどう歩いたのかわからない。「水をくれ!」という声がきこえてきた。思わず目をあげると、そこには、まっ白にぶよぶよに煮えた首があった。まるで豆腐だった。私はそのあと何をしたのか、どこをどう歩いたのか覚えがない。そのあと一週間ぐらいの記憶がまったくないのだ。
その後、一九五二年、私はとつぜんわけのわからない健康障害に見まわれた。味噌汁をのんだとたん、口の中の粘膜がぺろっとはがれたのが始まりだった。それから後、からだがすぐ疲れる、すぐ風邪をひく、背中や頸すじが痛む、頭痛がするなど、後に「ブラブラ病」と呼ばれる状態が数年間つづいた。私の健康はその後決してふたたびもとにもどることはなかった。いちばんひどかったときは、私は死が近いことを感じていた。廃人になるのではないかと悩んだこともあった。原爆は私の青春をうばい、私の一生を狂わせたと、時に私は思う。
原爆は絶対に許せない。人間として原爆をこの世界から一発のこらず追放するまで、私は休むことはできない。核兵器廃絶!ふたたび被爆者をつくるな。被爆者に国は国家補償をおこなえ!これは私の体験から来る叫びである。 |