今から五〇年前の八月六日の状況を、記憶をたどって書いてみましょう。
昭和二〇年は八月に入っても広島は焼けつくような猛暑が続き、雲一つない快晴の六日の朝を迎えました。今思えば警報が鳴っても空襲のなかったのが不思議で不気味な日が続いていました。ところが六日の朝八時一五分ごろ、突如B29一機が襲来、一発の爆弾で死傷者二〇万とも三〇万とも知れない多数の犠牲者をだしました。
当時私は暁部隊の所属で市の中心から南へ約三キロの地点、宇品に近い大河(オオコウ)という国民学校に宿泊していました。朝食が始まる瞬間、何かで頭を打たれたのか夢中で小学生の机の下に潜りました。爆音閃光、もの凄い爆風とその後におきた全市にわたる大火災で、まさに阿鼻叫喚、広島市は一発の爆弾で完全に崩壊してしまい、これが世界で初めて使われた世にも恐しい原子爆弾でした。
木造二階建ての校舎は骨格の一部だけを残して瓦解しましたが、幸い火災だけは免れました。多数の死傷者をだしました。半身裸体で机の下で静まるのをまって我にかえった時、初めて天井から崩れた太い桁で後頭部を強打されたのに気付きました。未だに後遺症に苦んでいますが九死一生をえました。破壊された校舎はやがて患者収容所となり、多数の患者が人の背に、また荷車に乗せられて市の中心から長蛇の列をつくって入ってきます。火に弱い人絹、スフはボロボロ、身にまとっているものはありません。ひどい出血、その上皮膚が紫色にはれあがり髪の毛はバラバラ、男女の区別はつきません。
臨時に出来た収容所にはもちろん何の薬の準備もなく、恐しいほど被爆した気の毒な患者の手当といふよりか整理に追われ、そのまゝ筵の上に寝かされてるのが現状でした。僅かな医務室の衛生兵ではどうすることも出来ません。患者のほとんどが火と高熱におかされ体の自由を失い、ただ喉がかわいているため兵隊さん水を、と微かな声で言うのが精一杯、一滴の水をどんなにか欲しがっていたか知れません。
兵隊も我れを忘れ足を引きずり、コップの水を患者の口もとにあてゝいるところを皆さん想像して下さい。目をとじて一滴の水をどんなに美味そうに静かに飲んでいましたか。しかしいつのまにか息をひきとって死んでいきました。何と惨い哀れなことでしょうか。広島市の中心の疎開の整理に来た若い女性が多いようでした。可哀相で涙なくしてはいられませんでした。
私たちの部隊は傷ついた兵隊を残し、夜になって収容所に近い小高い裏の黄金山に移動し、他の部隊と集結して、いよいよ乾坤をきして最後の激戦地と思われる周防灘に面した山口県の小さな漁村秋穂(アイオ)に向かうための出発の準備にかゝりました(そこは終戦後人間魚雷の基地であることがわかる)。
夜る黄金山の小高いテントの外に出ますと、暗黒の夜空に市内のここかしこから点々として 燃える青い異様な光は、なんと人生の終わりを告げる余りにも悲しい死者を荼毘に付している炎ではありませんか。 |