八月六日、当時広島県立二中二年生であった私は、山陽本線、広島駅北側にあった「東練兵場」の開墾によるイモ畠化とする為の勤労奉仕の為、(現在の双葉の里)練兵場に集合中であった。偶数日には畠へ奇数日は市中心部の強制疎開家屋の後かたづけを、二年生が実行し、一年生はその逆であった。この為、一年生は爆心直下に集合中で全滅した。
我々二年の集合中の頭上に一機のB29が飛来。その通過後に三つの白点を空中に見たが、その何んたるかを知らず、練兵場中枢で「集合」を命じている先生の声に集合しつつあった時、閃光が走った。熱風の中に身もだえし、失神したらしい。夏草の中で顔、右手、右大腿の余りの熱さに気付いた時、上着の右袖、ズボンの腿が燃えていた。
気付いて立ち上り、焼けている手足、右側頭部、顔面に驚き、焼夷弾の直撃を受けたと思ったが、三〇〇名近く居た級友は、遠くに二、三が走って逃げる姿を見るのみで見当らず、振り返った市内のあちこちに火の手が上り始め、何が何やらわからぬまゝ、北の山に向って逃げ込んだ。
頭上に膨れ上る爆雲は、見る見る大きさを増し、銀色から桃色、青、黒と変化し、これが再び舞い下りて来るのかと恐れた。色が変っていた右手背はやがて水疱化し始め、皮のむけた顔と頭からは滲出液が垂れ、「水を飲んではならぬ!」と言う流言に悩まされ、飲まず食わずで逃げ込んだ山の林の中で体力の回復を待った。
夕刻、「家へ帰ろう」と思い至り、山を下り、山陽本線の線路にそって歩き、夕暮れの草津本町にたどりついた。
「ただいま…」と疎開先きの教専寺の玄関に立った時の母の驚きと喜びの入り混った顔が今も忘れられない。その後、十日間、起床出来なかった。
父も比治山下で被爆したが、火傷のみで済んで衛生隊を指揮しているとその後聞いた。
その後東京にもどったが、白血球減少が続いた。 |