二〇年八月私は広島三篠本町の太田川の畔にある学校を改造した東部一三三五二部隊鉄道隊の兵舎に居ました。私達の中隊は殆んど四国へ作業に行き少数の兵隊が留守部隊として残って居ました。八月六日朝からカンカン照りの暑い日でした。広い兵舎の中に残っていたのは三、四人で静かな朝でした。朝食を済ませ一〇時頃迄は用が無くのんびり休んで居ました。其の時突然兵舎の天井がピカリ光りと同時に周辺が真白な光に覆われた。其の瞬間私は焼夷弾が天井を貫いて落下したように見えたので、それを避けようと反射的に立上がった時、大音響と共に吹とばされて失神した。ふと気が附くと建物の下敷となり身動きも出来ず胸を強く圧迫され呼吸困難となり押しつぶされてしまい意識を失った。どれだけ時間がたつのだろうか大きく息をして蘇生した。気が附いてみると太田川の水辺に寝かされている。もうもうたる煙の間に真赤な太陽がで、煙の間に見え隠れして居る。土手の方を見ると学校の講堂は完全に潰れ山のようなごみの山に成って居る。中心地から避難して来た人達が土手からぞろぞろ降りて来て居る。その人達は頭髪は殆んど無く丸坊頭にて真黒な顔をし身体中ボロまとっていて(後で判ったがボロと思ったはヒフがむけてボロのように見えたのです)男か女の見分けもつきません。ただ茫然と両手を前方に差出して歩いて居る。川の中のあちらこちらで暑いよう暑いよう助けてくれと声がきこえるが煙のため何も見えない。其の声も次第にきこえなくなった。皆川の深みに入って流されてしまったのであろう。私達の上官の曹長が指揮を取っている。皆上流の方へ避難せよとの命令で、私も動けないのだが必死の力を奮い起こして上流へ避難した。一キロか一・五キロ歩いたと思ふ。
そこで又川に両足を入れて寝ていたら通りかかった女の人が自分の持っていた手ぬぐいを水でぬらして頭を冷して行って上流へ去って行った。あの混乱の中での親切は今でも忘れることはありません。夜に成った。川向の山々が真赤にもえて居る。夜遅く隊で借りた近くの農家に収容される。背中を強く打っているため寝るも起るも戦友の手を借る始末。翌日怪我人の収容所へ連れて行ってもらう途中兵舎の前を通ったが鉄骨の残がいだけが残って居た。収容所で同年兵と一緒に成ったが外で光線を浴びたらしく顔半面暗紫色に盛上り大火傷で気の毒でまともに顔を見る事も出来なかった。収容所へは次から次と重傷者が戸板にのせられて運ばれて来る。あたり一面異臭がただよって居る。
八月二〇日負傷者は郷里に帰って宜しいと除隊に成る。広島駅迄馬車で送ってもらう途中見渡す限り焼野原で所々横壁丈が残って居た。もし負傷していなければ毎日後片付けに行かならなかったのだ。二次放射能をあびて今迄は生存出来なかったろう。郷里へ帰ったが身体の調子も悪く半年程はぶらぶら暮していました。其の間二度もめまいを起して倒れ病院へ通ったが手当の方法もありませんでした。其の後被爆の後遺症で二七年余りの間心ぞうが悪く病院通いが続き、又季節の変り目には被爆の時背中を強く打ったのでそれが痛み丁度被爆当時の状態になり苦しい日が続きました。働らき盛りの年代に疲れる程でもない仕事にすぐつかれて二時間程ねると何とか回復するので又働らくという状態がつづき、いつも仕事にブレーキを掛けなければならず現在でもその後遺症は尾を引いて居ます。
あの悲惨な広島長崎を二度と繰返さぬため核兵器禁止廃絶の運動を続けて行かなければならないと思ふ。 |