時 昭和二十年八月六日午前八時十五分
場所 広島県広島市江波町
爆心地より約二・五キロメートルの地点
身分 陸軍生徒 出口虎喜
原子爆弾被爆当時の状況
元陸軍生徒 出口虎喜(十七才)
昭和二十年八月六日。広島市は朝から典型的な真夏の天気。全くの快晴である。風もなく、これから始まろうとする演習の苛酷さを予告するかのような天候であった。
午前八時すぎ、警戒警報が解除になり、朝食を終わった吾々候補生は、昨日から出されていた演習命令の準備を終了し、装備の点検を完了して、集合前のひと時を、割合にのんびりした気分で第三区隊内務班内で待機していた。
突然、全く突然に、音も伴わず、目もくらむような強烈な閃光と同時に、窓の向こうの炊事場の方向に、やや黄色味を帯びた火柱が立ち昇るように見えた。私は反射的に、また本能的に身の危険を感じ、直ぐ側の自習机の下に退避した。あまりにも突然の出来事で恐怖を感じる余裕さえなく、これは全く本能的な逃避であった。閃光がおきてから後、実際にはどれ程の秒数が経過したのであろうか、両手で眼と耳を抑えて自習机の下に伏せている私の体の上を、地底をゆるがすような底力のある轟音が襲いかかり、嵐のような爆風が通り過ぎた。伏せた体の上に何か降ってくるようであるが身動きすることもできないまましばらくは伏せていた。
嵐がおさまったように感じたので、やっとのことで頭を起こし、周囲の状況を伺うと、自分と同じような格好、動作をした候補生がところどころに目についた。室内は、それまでは定規で測ったように寸分の狂いもなく整理整頓されていたのであるが、一瞬のうちに見るかげもなく、すべての物が散乱し、窓枠、棚等はすべて破壊され、室内の毛布、軍衣、兵器、軍靴等が乱れとんで、吾々候補生の体の上を覆いつくした。帯剣の鞘、飯盒などは原形を留めない程に押しつぶされ、押し曲げられてしまったものも多かった。また、破壊された窓ガラスの破片は、鋭利な刃物と化して、室内のすべての柱に突き刺さっていた。
吾々、生徒隊第二十一中隊第三区隊の候補生の中にも、相当数の負傷者が出ていることが次第に判明してきたが、中隊では大へんな数に達したと思われる。自分と同区隊の某候補生は、何かの破片で眉間を割られて鮮血がほとばしり、軍衣を血に染めながらも軍装を整えようとしていた姿が目に焼きついて離れない。幸いなことには、校舎(兵舎)が鉄筋であったことと、吾々の区隊の位置が爆発地点の反対側の室であったことで、幾重かの鉄筋の壁にさえぎられていたことである。もしもこの逆の位置であったら、自分も熱線によって戦死していたことであろう。
室内は以上の通りの惨状を呈していたので、自分の物を探し出すことも不可能となり、手近に散乱している軍靴、兵器等、誰の物かもわからないまま身に着けて、格好だけは軍装を整え、上官の命令を待たずして各自がそれぞれに室内からの脱出を開始したのである。廊下に出るまでは、障害物の排除も割合に容易であったが、廊下及び一階への階段は、木材、窓枠、その他の種々の破片の障害物によって通過するのに困難を極めた。
脱出の途中、区隊長室前にさしかかると、第四区隊の区隊長が硝煙とほこりの立ちこめる室の中から、長靴をはいて力なく出てこられるところを見たが、誰にも声をかけられなかった。多分負傷されていたのではなかろうか。
また、やっと中隊事務室(一階)前にさしかかった際、軍属の女性が頭部からの出血で頭髪を血で濡らして、それが顔面を覆い、半ば狂乱状態になって、何事かをわめきながら廊下を走り回っているのを見て足がすくんだ。
舎外に出てみると、室内以上の惨状。阿鼻叫喚、地獄かと思わせるような様相を呈していた。
学校(兵舎)の正門のすぐわきには木造の軍需工場があったが、そこには、中学生の報告隊の生徒が動員されていた。ここが火災となり、油のドラム缶の爆発とともに生徒たちと思われる人が吹きとばされているのを見る。吾々にはどうにも手がつけられず、また、事があまりにも急激であったのでその余裕さえなかったのである。
営内の防空壕入口は、すでに同僚の死体、負傷者でうずまり、救護所には爆風、熱線、およびその他の外傷による負傷者が横たわっていた。特に熱線による負傷者が、首筋、顔面など、露出していた部分を痛々しく赤くはらしていた。これが、時間が経過するに従ってますますふくれ上がり、赤味がかった色から次第に黒ずんだ色に変わり、目鼻さえ定かでないような状態に変化し、悪化していったのである。
大した負傷もせず、応急処置を受けた候補生たちは、営庭の別の防空壕に集まり出したが、原子爆弾落下直後は、指揮、命令系統も乱れてしまい、自主的な行動をとるようになっていた。
その頃、この爆弾のことを、誰言うとなく「ピカドン」と呼ぶようになったことを覚えている。爆発したときの光と音から、そのような呼ばれ方が実感として受け取られた。
しばらくは、その防空壕で、お互いが沈黙の状態のまま爆心地方向に立ち昇る雲を見ていたが、その上部がちょうど「キノコ」の傘の様に開き、それが次第に速度を速めながら広島市全体の上空を覆いつくして、あたかも夕方の様な光景を呈してきた。
その夜は食事をとることもできず、防空壕の中で過ごした。
広島市内は、原爆落下後一週間ほど燃え続けたが、翌七日から、五~六人一班の救助隊を編成し、爆心地である八丁堀方面に出動した。そのとき、幾人の負傷者を救助し、また、何体の遺体を収容処理したか数え切れない。
広島市は地形上、川の多い街である。その川という川には無数の死体が浮かび、また、橋のたもとには黒こげの死体が山をなす。また市街地の壊された建物の日かげの物かげには、黒ずんだ火傷の体を横たえた負傷者が、吾々救助隊に水を要求し、手を合わせた。
この様な救助活動を何日か繰り返した後、八月十五日、学校のわきを流れる天満川の桟橋から、上陸用舟艇を使って厳島への上陸演習に出動したのである。その当時一七・八才の「神洲不滅」を信じきった少年たちの心の中には、まさか、敗戦の道をたどっているということなど考えることもできなかったのである。
厳島に上陸して、島の小学校の校庭に集結したとき、ラジオ放送によって終戦となったことを知ったのであるが、そのときの少年たちの心の中には自決の覚悟ができた者が多かったろうと推察する。
郷里の長崎に、第二の原爆が投下されたということは、復員して吾が家に着くまで(八月二十八日まで)は通信、情報の途絶えた当時としてはわかりようもなかったのである。
あの時以来五十年間、当時はかすり傷一つ負わず、今まで、原爆による大した疾病の症状も表れず生きてこられたことが不思議な気がする。
二度と繰り返してはならないことである。
(平成七年一一月一日)
昭和四十五年八月三日(月)朝日新聞(夕刊)の記事の一部
「昭和二十年八月六日午前八時頃の広島の天候は快晴、北の風〇・八メートル、気温二六・七度。原爆投下八時十五分、数十秒後に爆心地上空約五百七十メートルで大爆発が起こり、最高数百万度の高温と爆風、放射線が放出された。爆心から一キロ以内の木造家屋は瞬間的に破壊され、二キロ以内で全壊全焼、三キロ以内では部分的に破壊され焼失した。人体に受けたやけどは、爆心から約三・五キロ範囲におよんだという。」
※人的被害
(広島市民三十二万人)
〇死亡または行方不明 二十万二千人
〇重軽傷 八千人
〇その後も原爆症で死亡する人が後を絶たない。 |