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私の被爆体験と証言活動 
高松 勝(たかまつ まさる) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2013年 
被爆場所 広島陸軍兵器補給廠(広島市霞町[現:広島市南区霞一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 陸軍兵器行政本部広島陸軍兵器補給廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は深安郡山野村(現在の福山市山野町)で生まれ育ちました。家族は父、母、兄、妹と弟二人の七人家族で、私は次男でした。当時、兄は召集されて九州に行っており、終戦まで戻りませんでした。召集される前は、安芸郡船越町(現在の広島市安芸区)にある日本製鋼所広島製作所へ徴用工員として働いていたので、私は時々兄に会いに行っていました。兄が出兵するときには一度山野村へ戻り、村の人がみんな日の丸を立てて見送ってくれました。妹や弟たちは小さかったので、山野村の国民学校に通っていました。

私は山野村の国民学校高等科を卒業後、満州(中国東北部)へ行きたいと考え、満蒙開拓青少年義勇軍へ応募しましたが、父が反対して行くことができませんでした。山野村から満州へ行った人が一人いたのですが、病気で亡くなったということは知っていました。今思うと、父が賛成して満州へ行っていたら、私は生きて戻ってこられたか分かりません。結局、霞町にある、広島陸軍兵器補給廠の工員の採用試験を受け、昭和十八年四月一日に採用されました。そのとき、私は十五歳でした。兵器補給廠では木工の修理の仕事をしていました。
 
●八月五日
八月五日の晩、空襲警報がありました。空襲警報があると、私たちは警戒のために兵器補給廠へ行かなければならず、その日は夜十二時過ぎまで兵器補給廠で待機していました。そのため、六日は出勤時刻がいつもの八時より一時間遅い、九時になりました。
 
●八月六日
八月六日の朝、私は兵器補給廠の休憩所の腰掛けに寝転がっていると、B29が来たとの知らせがありました。珍しいことではありませんでしたが、虫の知らせでしょうか、休憩所を出て空を見ると、何か黒いものがポテッと落ちるのが見えました。そして、目がくらむようなものすごい光がピカーッとしたので、私はすぐに防空壕の中へ駆け込みました。同時に耳が裂けるほどの大きな爆音がしました。三人ぐらい一緒にいたのですが、私以外は皆爆風で吹き飛ばされてしまいました。私はすぐに防空壕へ避難したので爆風から逃れることができて、けがもしませんでした。私は近くに爆弾が落ちたのだと思いました。防空壕から出てみると、砂ぼこりで周りはよく見えませんでしたが、五分か十分後ぐらいには、煙の柱のようなものすごい雲が何百メートルと上がっているのが見えました。私がいた休憩所は木造だったため爆風で潰れていました。レンガ造の兵器補給廠の倉庫は頑丈なため残っていましたが、周りの木造の家も潰れました。

その後は、壊れた建物の中から友達を助け出したり、救護したりしましたが、ほとんどは助かりませんでした。つい先ほどまで一緒に話したり騒いでいたのに、一瞬のうちに死んでしまって、本当にかわいそうでした。

近くにあった宿舎も潰れて、寝る場所が無くなってしまったので、夜は防空壕の中で寝ました。たくさん蚊が入ってくるので、蚊取り線香を手に入れたことを覚えています。トイレに行くため防空壕を出ると、負傷したたくさんの人が歩いてくるのを見ました。その人たちは突然バタッと倒れると、もうそれきり動かなくなりました。そのように倒れた人たちが地面にいっぱい横たわっていました。
 
●被爆後の惨状
翌日からは、兵器補給廠から一キロメートルほど離れた山に防空壕のような穴を掘り、そこで寝泊まりしました。その山からは、広島がだんだん燃えていく光景が見えました。今ではビルが建っているため、市内すべてを見渡すことはできませんが、そのときは一望千里何も無く、似島の方まで見ることができました。

兵器補給廠には大きな倉庫があったので、避難してくる被爆者をそこへ収容していました。正門で名前を聞き取り、倉庫の中へ入れていました。ござも何も敷いていない所に、何百人という被爆者が魚を並べたようにダラーッと並んでいて、皆全身にやけどをしていて服もほとんど身に着けていませんでした。ほとんどの人が「水をくれ」と言いますが、水をあげるとすぐに死んでしまうことが多かったです。生きている人は、二日目には体中にウジがわいていましたが、自分でウジを払う力も残っていないようでした。ウジを取ってあげようにも、体中全身にわいているのでどうしようもありませんでした。

亡くなった人々をトラックへ積むのが私の仕事でした。手袋が無いので素手で運びました。皮膚がやけどでズルズルになっていて、体を持ち上げようとすると皮がズルーッとむけます。そのときの臭いがきつく、ご飯を食べるときもその臭いが手に残っているようで鼻につき、手に紙を巻いて食べたりしました。七日以降は、このように亡くなった人々を運ぶ活動をしていました。トラックに積まれた死体は、学校へ運ばれ、兵隊さんが油を掛けて焼いていました。

福屋百貨店は、原爆により一階の床が落ちてしまい、地下が水浸しになっていました。かぎをロープに付け、それを地下へ垂らして引き上げると、かぎが着物に引っかかり、亡くなった人がザーッと上がってきます。そのような活動もしました。街中あらゆる場所に死体が転がっていました。今だったら死体一体あるだけでも大変なことですが、その当時は神経が麻痺していたのでしょう。何とも思わなくなります。その死体の間を歩いていきました。死んでいるのが当たり前という状況でした。一番悲惨だったのは、防火水槽の中で親子が抱き合って死んでいる光景でした。

元安川では、亡くなった人たちが流されていました。喉が渇いたのと、やけどをして熱いので川に入ったのだと思います。そしてそのまま力尽きて亡くなったのでしょう。その人たちのお腹はパンパンに膨らんでいました。潮の満ち引きによって、死体は行ったり来たりしていました。毎年八月六日に元安川で灯篭流しが行われますが、ちょうどその灯篭を流す場所で、私は死んだ人たちが川に流されている光景を見ました。
 
●家族との再会
八月九日の朝、親が私を心配しているだろうと思い、休暇をもらって福山へ帰りました。福山は八日の夜に空襲を受けたため、もしその晩に福山にいたら火の海だったと思います。当時は自動車などは無いので、山の中を歩いて山野村の家まで帰りました。途中、福山から避難してくる人のために、学校で炊き出しをしていたので、そこへ寄って麦飯か何かをごちそうになりました。

家族は、新型爆弾が投下され、広島は壊滅状態だということを、ラジオで聞いていたらしいです。私が生きているとは思っていなかったのでしょう。再会したとき、親はとても驚き、「足はあるのか」と聞かれました。親は、もう広島に帰らなくてもいいのではないかと言うのですが、黙って山野村にずっといるわけにはいきません。私も帰りたくはありませんでしたが、十日に福山駅から超満員の汽車に乗り、広島まで帰りました。扉の所に鉄の棒があったので、それにベルトを掛けて落ちないようにして、外にぶら下がるようにして乗ったのを覚えています。当時、放射能が広島に残っているということは全然考えていませんでした。ただ、軍属としての責任を感じ、広島へ戻ることを決断しました。
 
●終戦
福山から広島へ戻ってからは、兵器補給廠などで救護活動を続けていました。八月十五日の終戦のことは、重大放送があるということで、感度の悪いラジオから、天皇陛下が「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と大きな声で放送されるのを聞きました。戦争に負けて悔しいというより、自由になれてうれしいという気持ちのほうが大きかったです。

終戦発表後、一、二週間は残務整理のため兵器補給廠で作業をしていたと思います。他の人の中には、何か月も残って整理していた人もいたそうです。山野村へ帰ってからは、大工の仕事をしたいと考えたので、村の大工さんに弟子入りをして、十年ぐらい大工の仕事をしました。その後、福山の工務店から誘われ、定年まで働きました。
 
●体調について
山野村へ帰ってからすぐ、二週間ぐらい意識不明になりました。高熱が出て、うわ言を言い、ご飯も食べられませんでした。放射線の影響だったのかもしれませんが、当時はそのようなことは分かりませんでした。その後は、小さな病気をたまにするぐらいでした。しかし、被爆した元気だった友人が突然亡くなったという知らせを聞くと、私も他人事ではないと思いました。
 
●小学校での証言活動
私は、これまで被爆体験を家族にさえ話すことはありませんでした。しかし、被爆者の方が証言をされ、それを高校生が絵に描くという話を新聞やテレビで見て、私も伝えていかなければと思うようになりました。高校生がとても上手に絵を描いていたので、私も絵を描いて被爆体験を伝えたいと強く感じました。そこで、公民館に勤めている知人に、「被爆証言を学校でしたい」と伝えると、早速、福山市立中条小学校の校長先生へ電話をしてくださり、すぐに証言することが決まりました。そして、昨年、私を含めた四人で五年生に向けて被爆証言をしました。

私は紙芝居を用意し、一枚ずつ出して話をしました。紙芝居には、やけどで皮膚がただれた人々、防火用水の中で苦しむ親子、兵器補給廠に寝かされた人々、火葬される人々、川に流されていく人々の様子などを描きました。その絵を手作りの枠の中へ入れて子どもたちに見せます。黒板を使用したり、原爆が爆発した地点を東京スカイツリーの高さと比較して、子どもたちが分かりやすいように説明を工夫しています。子どもたちは、目を丸くしてしっかりと見ていました。子どもに話すということはとても難しく、あまり話が長くなると飽きてしまいますし、証言するということは難しいことだと感じています。しかし、一度やってみると、もう一度また証言したいと思いました。そして、子どもたちからは元気をもらいます。
 
●子どもたちに伝えたいこと
核兵器廃絶、核兵器反対と言っても子どもたちはその意味が頭に入ってこないと思います。実際に原爆の絵を見せたり、被爆体験を話したりすることで理解できるのではないでしょうか。核兵器が落ちるとどうなるかをしっかり伝え、そのうえで核兵器を作らないよう教えなければならないと思います。小さい頃から教えることで、子どもたちの意識も変わると思います。私は今年も中条小学校へ証言をしに行きますし、次は山野の学校へも証言をしに行きたいと考えています。

そして、もう二度と被爆者をつくってほしくないと思います。今、世界に存在する核兵器は、昔の核兵器の何十倍、何百倍もの威力をもつと言われています。しかし、年代が変わってきたせいか、核兵器やヒロシマに対する関心が低くなってきている気がしていました。本気になって核兵器廃絶の運動をしている人は少ないのではないかと思っていました。ところが、今年、八月六日に行われた平和記念式典に参列した際、とても多くの人が集まっていたのに驚きました。その多くの人を見ると、核に対して関心が高まってきたのではないかと感じます。私も証言ができる今のうちに、たくさんの子どもたちに被爆体験をどんどん伝えていきたいと思います。

【高松勝さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】 

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