当時、県立第一中学校一年生として通学していた。その頃授業はなく、連日建物疎開の後始末に従事していた。
当日も七時半に朝礼があり、一年生六学級の内奇数学級の三学級が市役所裏の現場で作業についた。残りの偶数学級三学級は教室に入り自習をしていた。私は偶数学級で教室に居た。閃光と共に気を失った。気が付いた時は校舎の下敷きになっていた。友人に助けられて校舎から脱出した。火はすでに近くまで迫っており熱かった。頭、顔、腕に大きな外傷がありシャツやズボンは血に染っていた。人の流れにつられて、文理大の裏を通り、御幸橋へと逃げ、橋の西詰めの交番所の前で座り込んだ。日赤の辺りは黒煙を上げて燃えていた。
救護のトラックに乗せられて、宇品の船舶隊の岸壁でよしず張りの下に収容された。夕方になって船に乗せられて似島の収容所に運ばれた。
父は市中を探し回りやっと似島に収容されているとの情報を得て、八月一〇日に迎えに来てもらうまで、水だけ飲んで寝ていた。父の自転車の前に乗せられて、廃墟と化した市中を通り抜け、疎開先の亀山村の自宅に帰る。
二〇日過ぎから発熱し、傷跡から歯ぐきから出血し、髪の毛も抜け寝込んでしまった。原爆症が発病した。
骨と皮ばかりになり、生死をさまよったが、母の手厚い看護のおかげで、九月の末頃には少しづつ快方に向った。
二度とこんな悲劇が起らないことを祈る。
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