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忘れられない母子の姿 
森澤 哲夫(もりざわ てつお) 
性別 男性  被爆時年齢 7歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所 広島市(西観音町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 観音国民学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の暮らし
私は、安芸郡江田島村の切串(現在の江田島市)で生まれ、物心ついた頃は十日市に住んでいました。

昭和十九年四月、今の平和記念公園の対岸にある本川国民学校に入学して、二年生(七歳)の六月に西観音町へ転居し、それに伴って観音国民学校へ転校しました。

家族は、肥料関係の仕事をしていた父と母、兄(九歳)、妹(四歳)、弟(一歳四か月)の六人家族でした。

移り住んだ西観音町は、県立広島第二中学校(現在の観音小学校所在地)から北へ約百メートル、爆心地から約一・七キロメートルの場所でした。もし、爆心地から七百~八百メートルの十日市に住んでいたら生きていなかったと思います。

西観音町へ移り住んだのは、父が仕事の関係で空襲直後の大阪へ出掛け、空襲で焼け野原になった大阪の光景を見たことでした。それまでは、当時住んでいた十日市の家の地下に防空壕を掘ろうかと母に話していましたが、地下に防空壕を作ってそこに入ったとしても、空襲に遭えば蒸し焼きになるから、防空壕を作ろうかという話は取りやめになり、仕事の関係で広島から離れることはできないが、少しでも中心部から離れようとして西観音町に転居したようです。

西観音町での生活は、原爆投下時までの約一月半でしたので、原爆投下時を除いて、あまり記憶に残っていません。近くの広島二中に、当時は珍しかった五十メートルプールがあったことは記憶しています。

私が大人になってから、遡って生活した跡を訪ねようとしたとき、十日市に住んでいた所はすぐに見つかりましたが、西観音町に住んでいた所はすぐに分からずプールを手がかりに捜した記憶があります。

観音国民学校は通ったことは確かなことですがほとんど記憶に残っていません。それに引き替え、本川国民学校のことはよく覚えています。担任は桑原先生で女の先生、教室は一階でクラスは赤組、青組、黄組の三クラスで私は黄組でした。二年生になって教室は二階になり青組のときに観音国民学校に転校しました。西観音町に移ってからも一週間くらいは本川国民学校に通った記憶があります。

●被爆したとき
八月六日の朝は晴天でした。父は水主町にあった広島県庁の近くへ防火帯造り(建物疎開)に出掛け、兄は外に遊びに行っておりました。家では母が縁側で弟におかゆを食べさせ、その横に私と妹は座っていました。飛行機の爆音が聞こえてきたので、私は飛行機を見ようと屋根の上に設けられていた物干し場に登る階段に足を掛けたとき、ピカッと光ったので無意識に家の中へ駈け込んでいました。その瞬間ドーンと物凄い音がして家が潰れました。

幸いにも私が駆け込んだ四畳半の部屋とそれに続く台所の天井板は落ちましたが、屋根と壁はかろうじて残っていました。母と妹や弟が居た縁側も倒壊していたので、もうもうとした砂じんの中で、そのときにはみんな死亡したと思い、自分は一人ぼっちになったと呆然としました。

私は落ちてきた天井板で額にけがをしましたがそのほかは無事でした。私は一人でどうしようかと思いながら、道路に出てみると、夢遊病者みたいな人がぞろぞろ歩いており、その流れに私もついて歩きました。茫然自失していた私は、その人たちの服がボロボロに破れていたことややけどしていることには気づきませんでした。

五十メートルほど歩いたと思うのですが、偶然、外に遊びに出ていた兄と出会い、初めて正気に戻りました。あのとき、兄と出会わず、そのまま人の流れについて歩いていたらと思うと、今ではゾーッとします。兄と一緒に家に帰ると潰れた家の外に母と妹、弟が座っていました。

後から母に聞いたところ、縁側にいた母たちは倒壊した家の下敷きになり、母もそのときは妹や弟は無事ではないと思ったそうです。母も突然の出来事なので、潰れた家の下敷きになりながらボーッとしていたようです。妹が「お母ちゃん助けて」と泣いたので我に返り、夢中で瓦礫を取り除き、弟と妹を救い出したと言っていました。母は、垂木が足のふくらはぎに刺さり大けがをしましたが、弟や妹がたいしたけがをしていないのを確認すると猛烈な痛みを感じたそうです。

●福島川の土手へ避難

兄と一緒に家に帰って母に会うと、二人とも無事だったと大変喜びました。母に、この場所にいるより福島川の土手の方が安全だから、とりあえず福島川の土手に行きなさいと言われ、薬などが入った救急用の袋を持たされ避難しました。

福島川に沿った土手の道にも、人がぞろぞろ歩いていました。私は、その中に若い母親が亡くなった赤ちゃんを抱いて呆然と立ちすくんでいる姿にすごいショックをうけました。七十年たった今でもその姿は脳裏から離れません。足元に救急用の袋を置いて、ボーッとして見ていたのでしょう。気が付いたら救急用の袋は無くなっていました。救急袋と書いてあったのでけがややけどをしていた人が持っていったのでしょう。

十時頃だったと思うのですが、黒い雨が降りだしました。私と兄は、爆風で飛ばされてきたと思われるトタン板を拾い福島川の土手の斜面に寝ころび、そのトタン板を体の上に乗せ雨を避けました。

午後四時頃に家に帰ったと思うのですが、広島県庁の近くで建物疎開に従事していた父が、全身に大やけどを負いながら家に帰ってきたことを知りました。このことも後から母に聞いたことですが、父が家に帰ってきたとき、風呂場の屋根の上にあった物干し場に、干してあった布団が燃え出していたそうです。当時は空襲に備えて五右衛門風呂の水を捨てずに残しておくよう指示があり、その水で火を消したそうです。父が、全身にひどいやけどを負いながら消火できたのは、気が張っていたからかもしれません。

私と兄が家に帰ったときには父は家にいませんでした。南観音町に救急の救護所が設置されたことを知り、そこに行ったからです。その日から、父は家に帰ることはできませんでした。

●被爆の夜
私と兄は、かろうじて倒壊しなかった四畳半の部屋に、母の指示に従って屋根が抜けた隣の部屋から座敷机を苦労して取り出し、その上に布団を敷きました。そこは足にけがを負って歩けなくなった母と弟のベッドになりました。

その日の夜、隣保(当時の町内会組織)の人から炊き出しがあるそうだから取りに行ってくれと言われました。たぶん午後の八時頃だったと思います。市内は夜も燃え続けており、私たちの歩いた道の両側もぼうぼうと燃えていました。怖い思いをしながら急いでその場所を通り抜け、炊き出し用の握り飯を運んできたトラックを見付けました。

トラックの上に居た人に私たちの隣保を告げて「炊き出しの品を受け取りに来た」と言うと、その隣保にはすでに渡したと言われ何も貰えませんでした。しょんぼりしながら帰り、炊き出しの品を貰ってこいと、私たちに命じた同じ隣保の人に話すと「もういっぺん行ってこい」と怒られ、大泣きをしながら両側がぼうぼうと燃えている夜道を怖い思いをして、もち箱に入れられた三角の握り飯を持ち帰ったことを今でも強烈に覚えています。

後になって、同じ隣保の中に大人の人もいたのに、なぜ七、八歳の幼い私たちが炊き出しを貰いに行かなければならなかったのだろうかと母に尋ねると、八月はわが家が隣保の当番で、父は建物疎開に行っていたので、私たちが炊き出しを貰いに行かなければならなかったのだと聞き納得しました。

●父の死
翌日の七日、父の実家(呉市阿賀町)から祖父が、広島に救援へ出動した警防団の一人として市内に入り、私たちの住んでいた家に来ました。父に会うため祖父と兄、私の三人で南観音町に設けられたという救護所を探して歩きました。見付けた救護所の場所は今では覚えていませんが、何かの学校の講堂で建物は残っていました。そこには、やけどやけがを負って動けなくなったたくさんの人々が床に直接寝かされていました。そこで私は被爆後初めて父と会いましたが、全身にやけどを負い、顔が分からなくなる程になり、唇はめくれ上がっていました。父が私たちを見てか細い声で「水を持っているか」と聞き、祖父が腰に下げていた水筒の水を飲ませました。祖父はそこに残り、兄と私は急いで布団を取りに帰り、父に布団を敷いて横たわらせました。たぶん南観音町の救護所で布団を敷いているのは父だけだったと思います。

父は二日後の八月八日に亡くなりました。そのとき、兄は救護所で父の看護をしていた祖父の所へ行き、私は家に残り妹の面倒を見ていたと思います。兄が一人で帰ってきて、父が死んで遺体を今、祖父と一緒に救護所から離れた所にある別の学校の校庭に運んだと話しました。それを聞いて母が激しく泣きました。私は父が亡くなったことと、泣く母を初めて見て二重のショックを受けたことを思い出します。

父の遺体が運ばれていた校庭には、遺体が校庭一面、土の上に並べられていました。その光景は鮮明に今でも覚えています。兵隊さんがその遺体を荼毘に付していたので、父の遺体も兵隊さんに手伝って貰い、祖父と兄、私の三人で荼毘に付しました。父は四十二歳の生涯でした。荼毘後、父の遺骨は風呂敷に包んで、祖父が呉の阿賀へ持ち帰りました。自分たちの手で父の遺骨を拾えただけでも幸せです。被爆して亡くなられた多くの人々が身元不明者としてまつられていることを思えば、私たちは恵まれていると思っています。

●被爆後の西観音町での生活
その日から三~四日後に、父の実家から父の末の妹が食べ物などを持ってきてくれました。そのときの話では、私たちを阿賀に連れ戻すためにいろいろ努力しているが、鉄道の切符が手に入らないのでもう少し辛抱してくれと言っていたのを覚えています。幼い妹はそのとき叔母が連れて帰りました。

終戦の日は、近所の人から大切なラジオ放送があると聞いて、家から二十~三十メートル離れた、やはり同じように崩壊した家の軒下に近所の人が十人前後集まり、天皇陛下の玉音放送を聞きました。私には、言葉が難しかったことや雑音が多かったので理解できませんでしたが、周囲の大人が戦争に負けたと泣いていたので、日本は戦争に負け、これから私たちはどうなるのだろうと不安な気持ちになったことを覚えています。

母は歩くことができなかったので、私たちだけで父の実家である呉市の阿賀へ避難することはできませんでした。辛うじて倒壊は免れたものの、いつ倒れてもおかしくない四畳半の部屋に家族四人(母、兄、私、弟)で暮らしました。

九月の初旬になって、ようやく阿賀に避難できましたが、それまで兄と私は着たきりすずめ、被爆時の服を着、当然風呂にも入っていません。夜は蚊に刺されろくろく眠ることはできませんでした。炊き出しは二日で無くなり、その後、何を食べて暮らしていたのか記憶にありませんが、鮮明に記憶していることがあります。

天満町の缶詰工場の焼け跡に行けば、焼け残った缶詰を拾えると人づてに聞き、兄と一緒に缶詰を拾いに行きました。焼け跡でも他人の土地に無断で入るのですから、悪いことをしている意識があったと思います。だからなるべく人に出会わない夕暮れに出掛けていました。

缶詰工場の焼け跡には、焼けた缶詰が小山のように積みあがっていました。缶詰を振るとピチャピチャと音がする缶詰は中が焼けておらず、カラカラと音がする缶詰は黒こげになって食べられないことを学びました。ピチャピチャと音がする缶詰も肉の缶詰と野菜の缶詰があり、缶詰を開けて肉が出ると大喜びしました。

八月も終わり頃、その日も夕方に缶詰を拾いに行きました。なかなか食べられるような缶詰は見付けられず、夢中になって食べられる缶詰を探していたとき、短剣(海軍兵学校の生徒が正装時に腰につるしていた)を持った海軍兵学校の生徒だったろうと思われる人に捕まりました。その人は「将来、君たちがこの日本を背負っていかなければならないのに、こんなことをしてどう思うか。君たちをこの短剣で刺し、僕も一緒に死ぬ」と言い、私たちはもう二度としませんと大泣きしながら謝りました。「もう二度としないように」と言いながら、焼けた缶詰ですがまだ食べられる缶詰を風呂敷いっぱいに包んでくれました。そのときに、焼けた缶詰の上から見た夕日の美しさは、今でも忘れられません。

それから、八月の終わりか九月の初めだったと思います。雨が降り続いた真夜中に、道を挟んだ隣の家の蔵がダダアーと物凄い音がして崩れ、次はこの家が潰れて家の下敷きになるのではないかと恐怖に震えたことを強烈に覚えています。

●父の実家での苦しい生活
九月の初めになって、父の実家からようやく叔父たち二人が、私たちを阿賀に連れ帰るために来てくれました。九月になったのは、まとまって汽車の切符が手に入らなかったことや、二人の都合が合わなかったからです。歩けなかった母を乳母車に乗せ、弟は母が抱きかかえました。広島駅までどの道を通ったか記憶にありませんが、焼け野原に福屋百貨店と屋上に細長い塔があった中国新聞社の社屋が残っていたのを覚えています。

妹とも合流して一家五人、父の実家の世話を受けて生活しました。阿賀で暮らし始めてまもなく、今度は大水害に遭い父の実家も相当な被害を受けました。家は床上まで水に浸かり、祖父の鉄工所の作業場は屋根の近くまで水に浸かりました。私たちは近所の家に避難して迷惑を掛けることになりました。その水害が枕崎台風だと後で知りました。

水害の後片付けも一段落し、母も歩けるようになったので、三人(母、兄、私)で西観音町の家の整理に出掛けました。阿賀に避難するときに、叔父たちが和文タイプライター、壊れたラジオ、手回し式蓄音機、本など金目の物を潰れた家から取り出し、押入れに入れて板を打ち付けたのを覚えています。戻ってみると一切合財すべてが無くなっていました。初夏に母を手伝って漬けた梅干しまで無くなっていたのはショックでした。

そのときに、父が掛けていた生命保険の手続きのため己斐の駅前に行って、ヤミ市で松茸を買い、焼き松茸にして食べたことを覚えています。

終戦後の超インフレ、その後の新円切替え等で生活は苦しく、幼い私もいろんな経験をしました。当時、塩は専売制でした。瀬戸内海沿岸の竹原市には塩田が広がり塩の生産が盛んでした。竹原でヤミの塩を買い、その塩を芸備線沿線の農家で米と交換していました。夏休みのある日、最終列車に遅れそうになり甲立駅まで早く歩けと怒られながら必死に歩いたことを今でも忘れられません。中学生になると二年間新聞配達をし、時々オート三輪車の助手席に乗り、芋をでん粉工場に運ぶのを手伝って小遣い稼ぎをしたことなどがよみがえってきます。

●その後の生活
母は苦労して私たち子どもを育ててくれました。私は、中学校を卒業し東洋工業(現在のマツダ)の技能者養成所の試験に運よく合格し三年間を養成工として教育を受け、プレス工場に配属されました。

仕事にも慣れて油断していていたのでしょう、二十二歳のときに、私の不注意から両手に取り返しのつかない大けがをして障害が残りました。十か月におよぶけがの治療とリハビリを終えて会社に復職しました。当然、けがをする前の製造の仕事はできず、今度は同じ車体部でも書類づくりをする間接部門の仕事になりました。

けがの後は、字を書くための補助具の助けがなければ字を書くことができず、一生懸命努力しました。五十八歳で仕事を辞めるまで事務的な仕事で生活を維持し、今は年金で細々と生活しています。人並みに恋愛し同せい生活を二度経験しましたが、正式な結婚には至りませんでした。

母は、七十七歳で永眠し、兄や妹も亡くなり、被爆後も生きている家族は、私と弟の二人になりました。

私は、六十五歳頃までは元気でしたが、その後は脳梗塞、胆管癌で胆のう、十二指腸を摘出、胃を半分切除しています。白内障で両眼を手術、頸椎ヘルニアと脊柱管狭窄症で頸部と腰を手術しました。また、糖尿病を発病し、食事に気を使いながら現在も薬を服用しています。いわば満身創痍状態で、自分でも生きているのが不思議に思っています。

●一被爆者の思い
広島で日常生活をしている限り、被爆を意識することはありませんが、呉で小学校四年生のときに、上級生の五年生からピカドン、ピカドンとからかわれて取っ組み合いのけんかをしたことを覚えています。今では、ピカドンという言葉は死語になっていますが、ピカッと光ってドーンと爆発したことから、原爆のことをピカドンと言っていました。

東北地方に旅をして居酒屋に立ち寄ったとき、話す言葉の違いから「どちらから来られましたか」と声を掛けられました。広島東洋カープのことで話が弾み話は原爆に移り、被爆し被爆者健康手帳を所持していると話すと「被爆者はいいですね、病気をしても医療費がかからないから」と聞いてあ然としましたが、これが世間一般の考えだと感じました。

もう一つの出来事は、かなり以前の八月六日、原爆慰霊碑に手を合わせ帰りかけたときに、マイクを差し出され「被爆者の方ですか?」と聞かれ「そうです」と答え「その手は被爆のときに……」と言って視線は私の手の方に向いていました。私は「違います」と言って、急ぎ足でその場を離れました。

そんな経験をしたせいか、障害者である私が積極的に被爆体験を話すことをしませんでした。そんな私が、被爆体験を後世の人に伝える気持ちになったのは夢を見たからです。夏風邪の高熱で苦しんでいるときに夢を見ました。夢の中で、西観音町の倒壊しかけた家や福島川のほとりを歩いていました。あれっ、福島川は埋め立てで無くなったはずだがと、思ったときに夢が覚めました。

変な夢を見たなと思いながら昼過ぎになって新聞を開くと、被爆者の話を聞き、それを後世に伝える活動を記事の中で見付けました。その記事を見たときに、夢を見たのは私の被爆体験を後世に伝える決心をさせるためだと思いました。

一発の原爆で広島は壊滅しました。核兵器は通常の兵器と異なり、威力は絶大です。国や民族同士の紛争に核兵器だけは使用されないことを願っています。自分の被爆体験を伝えることで、原爆の被害を二度と繰り返さないために何かの役にたてばと思っています。

●伝えたいこと
敗戦によって、呉には占領軍が進駐してきました。呉の街にはジープが走り、かっ歩する占領軍兵士をよく見ました。それに伴って、アメリカの品物も入ってきました。その中で私がショックを受けた物が、軍用の携帯食品です。だ円形の缶詰の中には、クラッカー、チーズ、レーズンが区分けして置かれ、驚いたのは煙草が三本とろうマッチが入っていたことです。缶詰は缶切りなどの道具は不要で、先端をグルグルと巻いて開ける方式です。そのような方法で開ける缶詰とろうマッチは、そのとき初めて見ました。缶切りを使って苦労して缶詰を開けていた私としては、そのような缶詰を作っているアメリカと日本の国力の違いに衝撃を受けました。なぜ日本は、国力がこんなに差のあるアメリカと戦争を始めたのだろう、日本がアメリカに戦争で負けたのは当然だと思いました。

日本は自然災害に度々遭って来ました。そのとき、頼りになるのは機動力と組織力に優れた自衛隊でした。平和、平和と叫ぶだけでは平和は維持できません。平和を守るためには、国力の充実が必要不可欠です。国力とは軍事力ではありません。政治、外交、経済、科学技術、文化、それに民の力、他国からの侵略を防ぐ自衛力などの総合力です。

ただ、戦争は無差別に人を殺傷するものです。決して戦争はしてはいけません。
日本が、これからも永遠に続くことを祈っています。

 

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