●被爆前の生活
広島市南竹屋町で母と姉と私の女三人で、暮らしていました。父は軍属でしたが、病気のため帰国し、昭和十九年七月に亡くなりました。三番目の兄が亡くなったのも同じ年です。長兄と次兄は出征していました。二人の兄たちは復員が遅く、長兄はシベリアに抑留されていたため、帰ってきたのは、戦後、昭和二十五年から二十七年頃でした。
私が小学五年生の頃始まった太平洋戦争は、袋町国民学校高等科に進学してからも続いていました。高等科に進学してからは広島地方専売局など、いろいろな場所へ動員されたため、勉強をする時間はありませんでした。
●八月六日
当時、私は高等科二年生の十四歳でした。その頃は宇品町にあった広島陸軍糧秣支廠へ動員されていました。八月六日も、いつもと同じように糧秣支廠へ行く予定でしたが、町内の組長さんに「あんたのお母さんはちょっと体が弱いけえ、あんたが代わりに建物疎開の手伝いに来てくれたら助かるよ」と言われました。そこで私は学徒動員を休み、家の近所の建物疎開に参加することにしました。
現場に着くと、ちょうど建物疎開の説明が始まるところでした。到着した瞬間、突然左からバッと、オレンジや赤や紫が入り混じったような言い表しようのない色をした光線が当たりました。私はそのとき何が起こったのか分かりませんでした。ふと後ろを見ると、多くの家屋が建っている小さな路地が目に入り、無意識のうちに逃げこんでいました。しかし、逃げ込んですぐに家が崩れ、私は梁に挟まり、身動きが取れなってしまいました。隣を見ると、私と同じように逃げ込んだ、建物疎開に参加していたおばあさんがいました。私はそのおばあさんに、「もし私がここから出ることができなければ、母に死んだということを伝えてください」と、住所と名前を伝えてお願いしました。その後おばあさんの声が聞えなくなったので、おばあさんは逃げることができたのだと思います。
光線によって着ている服まで燃えてしまったというのに、そのときは不思議と熱さは感じませんでした。しかし、左上半身にはやけどが残り、頬には今も白い痕があります。
●母と再会
身動きできない状態がしばらく続いていたときです。私にはとても長く感じましたが、実際には爆弾が落ちてから一時間もたっていないくらいでした。目の前にゲートルを巻いた脚と靴が見えました。私はすぐにそれが兵隊さんと分かり、「助けてください!」と助けを求め、やっとの思いで抜け出すことができました。
辺りを見渡すとすべての建物が壊れていました。目印になるものも倒れていますから、自分の家や、広島駅、宇品の方向も分からず少しの間、呆然と立ち尽くしてしまいました。そこから動こうにも方向が分からなかったので、その場に座っていると、母が私を捜しにきてくれました。母は家の中にいたためか、けがはしていませんでした。
それから母と一緒に皆実町の広島地方専売局へ逃げました。専売局に着くと、そこにいた人から「ここは建物が大きいから倒れたら危ない。他の場所へ避難してください」と言われました。それから近くの御幸橋へ向かい、橋の下で数日間過ごしました。
●姉との別れ
八月六日は、十九歳の姉が新しい職場へ初出勤する日でした。私は姉の新しい職場について詳しく知りませんでしたが、元々は大正屋呉服店があった建物に当時入っていた燃料配給統制組合で働くことになっていました。その建物は現在は平和記念公園レストハウスになっていますが、爆心地からわずか百七十メートルという至近距離にありました。
姉との再会後に聞いた話ですが、職場で席に座っているときに被爆し、そのとき、机の足が体にぐさっと突き刺さったそうです。その刺さった足を自分で引き抜いて、建物の近くを流れる元安川にみんなが水を求めて逃げたため、姉も一緒に逃げました。川に入るとみんな流され、次々と亡くなっていったそうです。姉は最後の力を振りしぼり、流されないようどこかにつかまり、必死に耐えていました。そこへ通りかかった人に助けられ、そのまま広島赤十字病院まで運んでもらったとのことでした。
母は御幸橋の下に避難している間、毎日姉を捜しに出掛けました。そして偶然、広島赤十字病院に行ったとき、収容されていた姉を見付けることができたのです。姉は、けがとやけどで一目では姉と分からないような顔になってしまっていたのですが、母はその日姉が付けていた赤いベルトで、自分の娘と分かったそうです。母はどこからか台車を探し、姉を乗せて御幸橋に連れてきました。
その後、八月九日に知り合いのおじさんが、けが人が二人もいるのならとトラックで私たち家族を、広島陸軍兵器補給廠まで乗せていってくれました。そこで姉と私は手当てを受けることができましたが、二日後の八月十一日、姉は亡くなりました。
●その後の生活
姉の死後、兵器補給廠で荼毘に付してもらい、遺骨を持ってその足ですぐ母の故郷である安佐郡戸山村(現在の広島市安佐南区)に向かいました。戸山村に着いてからは母のいとこの家にお世話になりました。そこでは差別や偏見も無く、みんなが私たちのことを大事にしてくれました。
昭和二十二年頃、母は原爆が投下される以前に家事手伝いをしてくれていた方から誘われて、広島駅近くのヤミ市で食堂を開くことになりました。その方は朝鮮の人で、姉を助けてくれた方の母親でもありました。記憶が確かではありませんが、今の田丸果実店の辺りだったようにも思います。特には名前も付けていないような食堂です。昼から夕方まで、ご飯やお酒を出す店でした。寝泊りも、その店でしていましたし、何も物が無い時代になんとか生活していました。
母は、戦前、私が幼い頃に住んでいた舟入の家で雑貨屋を営み、小町でも食堂をしていました。昭和二十四年頃にヤミ市の食堂をやめた後にも、引っ越した先々でも食堂を開きました。商売の好きな、働き者の母でした。私も、母が食堂を始めてからは、その手伝いをして生活していました。
私が結婚したのは昭和二十四年でした。夫も被爆者で、母と営んでいた食堂のお客さんだったのですが、それがきっかけで知り合いました。
子どもは息子が三人いて、年を取ってからは、近くで暮らしている次男が私たちの世話をしてくれました。今では孫が七人、ひ孫も七人います。夫は去年、平成二十六年十二月に亡くなりました。
私自身はこれまでに、頸椎や乳癌の手術をしています。二年前にも胆のう癌を患い、また、圧迫骨折もしていますから、五回も全身麻酔の必要な手術をしました。
●伝えたいこと
最近は各地でテロや紛争が起こり、世界全体が恐ろしいことになってきています。子どもや孫が、戦争に行かなくてはいけないような未来になってほしくありません。今の若い人たちには私たちのような辛い思いをしてほしくありません。
人の痛み、苦しみを理解して、戦争の無い平和な日々を送ってくれたら良いなと、私は思います。
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