●被爆前の生活
私は幟町で両親、弟妹四人の七人で暮らしておりました。我が家の近くにはカトリック教会があり、自宅二階から教会の玄関がよく見えるため、憲兵隊に家の二階を接収され、三人の憲兵が朝来て夕方まで、教会へ出入りする人たちを監視していました。家人でも上に上がることはできず、二階へ近付くと「子どもが何をやっとる!」と怒られました。
父、近藤忠は消火バケツやとび口などの金物を扱う商いをしておりました。私のことを商売人にしたかったようで、南観音町にある広島市立第一商業学校へ行くように勧めました。私が入学してすぐ父は徴兵され中国へ出征しました。
戦況が厳しくなってくると母・末枝と子どもたちだけでは不安なので、母と弟妹たちは母の実家の賀茂郡川上村正力(現在の東広島市八本松町)へ疎開しました。そこで私は皆実町二丁目にある伯父(母の兄)宅へ下宿して学校へ通うことにしました。昭和十九年三月、私が二年生になる直前に学校は校名変更されて、広島市立造船工業学校になりました。
●昭和二十年八月六日
当時、私は十四歳で三年生でした。いつもなら学徒動員で伯父の家から三菱重工業広島機械製作所の工場へ直接出向いて、鉄板をグラインダーやたがねで加工していました。
しかし、八月六日は月曜日でしたので、川上村の母の実家に行っていた私は、八本松駅から汽車に乗り広島駅で下車、汽車通学者は電車に乗っても良かったので、広島駅から路面電車に乗って天満町で降り、南観音町にある学校へ行きました。校庭に入って校舎と校舎の間を歩いていたときです。ドンと大きな音がして、ガラガラ、ドタンドタンと二階の屋根瓦が落ちてきました。これはおかしい。きっとこの近くに爆弾が落ちたと思いました。
木造の校舎は倒壊し、板壁がめくれるように剝がれて裏返しになり、止めくぎが上を向いていたため、私は逃げる途中にそのくぎを踏み抜きました。もう少し歩く場所が違っていたら、屋根瓦の直撃を受けるか、ガラス片を浴びるところでした。校舎の陰でやけどもしないですみました。しかし、後から来た級友たちは皆大やけどを負っていました。夏服の半袖を着ているため、皆、ボロボロの皮膚を垂れ下げ、肘から下はズルズルの状態でした。みんなの手当てをしなければいけませんので、倒壊を免れた教員室の隣の医務室へ窓を壊して中に入り、油薬・赤チン・ヨウチン・包帯等を取り出し、それを外にいる者に手渡して応急手当てをしました。しかし、薬を塗ると皮膚がズルズル剝がれどうにもなりませんでした。
昼前頃から校舎に火がつき、燃え出し始めたのですが、けが人が「おなかがすいてきた。食べるものを探してきてくれ!」と言うものですから、探しに行くと武器庫に保管されていたジャガイモを見付けました。私が一年生のときは武器庫に三八銃がざっと並べてありましたが、そのときは一丁も無くジャガイモがいっぱい積んでありました。食糧難を補うために運動場を耕してジャガイモを収穫し、その後にサツマイモを植えていたのです。ジャガイモを見付けてもそのままでは食べられません。その頃火事が起こっていたので、見付け出したジャガイモを火の中へ転がし込んで焼きました。皮をむいて口に入れましたが、味が無く食べられませんでした。学校の近くのまだ火のついていない壊れた民家の台所から塩、しょう油を見付け、これをジャガイモに振り掛けてけが人に食べさせました。そうしているときもアメリカ軍の飛行機が上空を旋回するので、機銃掃射されてはと、校庭に植えていたサツマイモのツルを体にまとい、地面に伏して飛行機が飛び去るのを待ちました。
川上村に帰ろうと思い天満橋まで行きましたが、橋を渡ろうにも倒壊家屋の瓦礫で覆われ、電柱が一メートル位焼け残り、電線が顔、首の高さに垂れ下がり、道が塞がれていました。
川上村がだめなら皆実町の下宿に帰ろうと思い、観音橋から住吉橋、明治橋を渡り、鷹野橋の電車通りへ出ましたが、鷹野橋までの間、道路両側の家は焼け落ち、軒先の防火用水に手を合わせてかがんだ姿で体を突っ込んだまま死んだ人をたくさん見ました。ここも電柱は倒れ、電線が背丈ほどの所で道を塞いでいました。タオルを湿らせて口に当て体をかがめて通りを南へ下り御幸橋を渡って、やっとの思いで皆実町二丁目の下宿にたどり着きました。下宿は火事にこそなっていませんでしたが傾いていました。
下宿先には伯父、伯母、いとこ四人が住んでいましたが、伯父は不在でした。伯父は広島鉄道局に勤めており勤務先へ行ったまま帰ってきません。伯母やいとこたちはやけど、けがなどで苦しんでいましたので、私が傷の手当てをして食事の世話をしていました。しかし、食事といっても当時のことですから、畑にあるトウガンを煮て食べるだけです。
近くの広島地方専売局(現在の日本たばこ産業)の空き地では、トラックで運ばれてきた死体を山のように積み、油を掛け夜を徹して焼いていました。荼毘に付した遺骨といっても、誰の遺骨か分からない状況でした。現在の平和記念公園内の原爆供養塔に安置されてある遺骨の引き取りが進まないのもやむを得ないかと思います。
●看病と不安
三日目だったと思いますが、川上村の母が心配して伯父の家を尋ねてきてくれました。母は近所の人たちが六日の昼から夕方にかけて八本松に戻ってきたものですから、私が帰らないのを心配して、次の日に海田市まで汽車で行き、救護所を捜し歩いても名前は無いし、どうしているだろうか、死んでしまったのではないかと思いながら伯父の家に来てくれました。私が伯父の家族の面倒をみていましたので、しばらく母と一緒にいとこたちの世話をしておりました。しかしここでは病院も無いし医者に診てもらうこともできないため、母の実家(川上村)へ皆を連れて帰りました。
八本松駅では近隣の人たちが大八車で迎えに来てくれました。今のように舗装もされていないでこぼこ道を四キロ余り戸板に寝かせて連れ帰りました。明くる日から近くの高橋医院の先生が単車に乗って往診に来てくれました。トントンと大きな音がしたので近づくとすぐに分かりました。やけどやけがを負った伯母といとこたちの看病を続けました。彼らは背中をやけどしているためうつ伏せに寝ていました。薬を塗ろうとするとそこに白いウジ虫がわいており、竹で作った箸でそれを一匹ずつ拾って取り除きました。
また、当時「広島には草木も七十年生えない」「原爆に遭ったと言ったら結婚できない」といろいろ言われており、自分も原爆の症状が出るのではないかと思いながら、毎日毎日、不安な日を過ごしておりました。
●被爆後の生活
母の実家では牛を使って水田を耕し稲作をしていました。父はいまだ帰ってこず、長男の私が主になって米作りをしておりました。年が明けてから、学校は仁保町丹那の元暁部隊兵舎に移転していました。山陽本線八本松駅から広島駅まで行き、そこで0番線が乗り場の宇品線に乗り換え、客車ではなくぼろ貨車に乗って丹那駅まで通学、兵舎に机を並べて勉強しました。私は陸上競技が好きでしたから五年生になったときに体育部長となり、県大会や中国大会で山口へ遠征して、マラソンや駅伝等に頑張っていました。市立造船工業学校は昭和二十二年に元の市立第一商業学校へ校名改称され、さらに昭和二十三年学制改革により広島市商業高等学校となり、もう一年学校を続ければ新制高校の卒業になると言われましたが、そのまま卒業して、広島鉄道局へ就職しました。配属先の海田市駅では呉線と白市駅までの範囲を統括しており、ポイント番号は今でもはっきり覚えております。また小郡駅(現在の新山口駅)へ転勤して、小郡から津和野の間へ蒸気機関車を走らせることになり、このSL復活の運行業務に携わりました。蒸気機関車の振動で屋根瓦がずり落ちるなどと沿線の人に言われ、心労が重なって十二指腸潰瘍になり、毎日病院で注射を打っていました。広島への転勤を願い出てやっとの思いで広島へ帰ることができました。また、国鉄民営化の折は再び海田市駅に戻り統括助役をしておりましたが、労働争議が激しく定年を一年残して退職しました。
●平和への思い
国鉄退職後は東広島市で原爆死没者の供養祭を山陽本線西条駅の北側にある国分寺で行い、私は事務局長として十五年余り死没者の記帳と追悼慰霊祭を行ってきました。慰霊碑を建立し、被爆されて亡くなった人の過去帳を作り、毎年、毎年死没者名を書き加え、慰霊碑の中へ納めておりましたが、湿度管理をしていないため保存状態が悪く、現在は松翠苑(現在の東広島市八本松地域センター)内の「原爆被爆の会」展示学習室へ置かれています。
また、東広島市八本松町の小学校へ出向き、被爆体験を子どもたちに語り、最近では日々お世話になっているデイサービスの施設で原爆が投下された八月六日に時間を頂き、広島へ落とされた原子爆弾の惨状について体験したことを話しております。私を捜すため原爆投下後の広島市内に入った母は、白血病で死にました。
とにかく戦争はないほうがいいです。
徴兵で軍隊に出て行くようになってはいけません。
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