●被爆前の生活
私は当時十六歳、広島市尾長町の家で母・山本ミツルと二番目の姉のツルエ、弟の幾男、照正、磯勝の三人と一緒に暮らしていました。父は私が六歳の頃に病気で亡くなったため、母が近くの鉄工所に勤めながら私たち、きょうだいを養っていました。一番上の姉は結婚し東京に行っていましたが、昭和二十年には東京は危険だからと三原市に疎開してきていました。二番目の姉は広島電鉄に勤めており、市内電車の車掌をしていました。
当時は、全員が女学校に進学する時代ではなかったのですが、「学校に行きたい行きたい」と私が言ったので、母や姉がどうにかお金を工面してくれて、井口に新設された実践高等女学校の第二期生として入学することができました。家のある地域ごとに菊・蘭・松・竹・梅とクラス分けされており、私は菊組に所属していました。さらに、家が近い人同士で五人一班となり、猿猴橋から電車に乗り己斐で市外線に乗り換えて一緒に登校していました。学徒動員が始まるまでは、よく勉強させてもらいました。
四年生になって、学徒動員により佐伯郡河内村(現在の広島市佐伯区)にあった昭和金属工業へ行くことになりました。工場の近くで寮生活をしながら、朝から晩まで飛行機の方向舵を製作するためジュラルミンのリベット打ちをしていました。
動員中の食事は大根ごはんや大豆ごはんばかりで、それもお米はどこにあるか分からないようなものしかありません。そんな食生活をしているうちに、盲腸になってしまいました。家で養生することになり、トラックで送り届けてもらったのが、昭和二十年七月三十日のことです。的場町にあった病院で診察を受けたところ、手術をするほどではなく薬で治療しました。そういう訳で、本来であれば八月五日が日曜日で六日には動員先の工場に帰らなければいけませんでしたが、六日の朝も広島市内にいたのです。
●八月六日
朝、親戚の家が建物疎開により取り壊されることになったので、薪にするための木材を取りにいくことになりました。家には腹痛で仕事を休んでいる姉もいましたが、少しでも家の手助けをしたかったので私がついていくことにしました。近所に住む父方の祖母と四歳になるいとこの女の子、近所のおばさんと私の四人で大八車を引き、材木町へ向かいました。途中、猿猴橋町で時計店を営む同級生の家に寄り、体が弱いため家にいた同級生と「早くお元気になられて、工場や学校に行けると良いですね」と挨拶をしているうちに、他の三人と少し離れてしまいました。
話を終え、祖母たちを追い掛け猿猴橋のたもとまで来たときでした。警戒警報は解除されていたはずなのにB29が飛ぶのが見えました。ジュラルミン製の機体に光がキラキラと反射して「あら、すごくきれいだね」と思っていた次の瞬間、爆風により後方に飛ばされ意識を失いました。しばらくして気がつくと住友銀行東松原支店の前で、体が熱いため無意識に銀行の防火用水の中へ入り水を浴びていました。先を行っていた三人の姿はどこへ行ったのか、大八車もろともさっぱり分かりません。
暑い夏の日でしたが、夏服は動員先の寮に持っていっていたので、たまたま家にあった長袖の服を着ていました。そのため、上半身は露出していた手元や首回りだけやけどをしていました。当時は物の無い時代でしたので、シーツを下着に仕立ててそれを身に着けていたのですが、はいていたかすりのモンペは焼け焦げて太ももから下の部分はなくなり、シーツの白い部分だけが残っていました。足元は、鼻緒の部分以外はすべて焼けていました。履物も無くなってしまったので、はだしで踏切を渡り、一生懸命に家に帰りました。
現在の荒神陸橋の位置に、小さな踏切がありました。その踏切を渡った所には朝鮮の人がたくさん住んでおり、みんな大騒ぎしていました。そこから三田製綿の辺りまでは、道に人々が倒れていたりして歩きにくかった記憶があります。倒れた人の中には、よちよち歩きぐらいの裸の男の子もいました。しかし、どうやって家に帰るかということで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕はありませんでした。あの当時、三田製綿から先は田んぼが広がっており、そこを進んだ突き当たりに私の家がありました。
必死に我が家まで帰り着くと、爆風により屋根が飛ばされていました。姉と弟たちは、被爆時には家にいたようです。やけどをした私の姿を見た姉が「やけどなら油がいいからちょっと待ちなさい」と言い、ぐちゃぐちゃになった家の中から油を取り出してきました。「痛い痛い」と言いながら手当てしてもらったことを覚えています。
自宅の裏山は高天原と呼ばれていました。今は立派な火葬場が建っていますが、当時は軍が使用しており、救護所が開設されたので調子の悪い人は行った方が良いということで、一人で避難することになりました。道中は無我夢中だったのでどこをどう通ったのか記憶にありません。ただし、自分の皮膚が垂れ下がっていること、また、周りの人も同じ状態になっていたことは分かりました。高天原に着くと、安心したのか倒れてしまいました。被爆から二時間くらい後だったと思いますが、顔が倍の大きさに腫れあがり目が見えなくなりました。六日の晩は山の上で過ごしたのですが、姉が来たのかどうか何も覚えていません。ただ、近くに赤ちゃんを抱きかかえたまま意識の無い母親がおり、その腕の中で赤ちゃんが泣いていたことは強く印象に残っています。
●母との再会とけがの治療
母は、比婆郡小奴可村塩原(現在の庄原市東城町)にいる母の妹の所へお米をもらいに行くため、六日の朝七時四十分頃の芸備線に乗って出掛けていました。安芸矢口駅の辺りでドンという音を聞いたそうです。大きな音に驚いても、当時のことですから、すぐに連絡が取れるわけではありません。家に帰ってきたのは七日の朝のことでした。どこで聞いたのか、高天原にまでやってきて再会することができました。ところが、私に向かって「ツルエさん?」と姉の名を呼び掛るのです。「いいえ。私、スミエなんです」と答えると驚き、泣き出してしまいました。家にいるはずの私がまさかやけどをしているとも思っておらず、また、それほどまでに顔の腫れがひどかったのだと思います。何日か山の上におりましたが、食べるものも無いのでとにかく家に帰ろうということになり、背負って連れ帰ってもらいました。
家に帰って何日かたつと腫れが引いて目が見えるようになりましたが、寝たきりなので周囲の状況は分かりません。寝ている間に、やけどを負った所にウジがわきました。ウジというのは骨と骨の間に深く入り込むので、ウジがわくと痛くてじっとしていられませんでした。母や姉が一生懸命に取り除いてくれましたが、すごく苦しい思いをしました。当時の私の状態は、どのように表現していいのか分からないくらい、それは悲惨なものでした。
終戦までは広島湾一帯に何度か空襲がありましたが、私は動ける状態ではなかったので、警報が出ても防空壕へ逃げることができませんでした。最初の頃、母は、「娘を置いて防空壕に入れない。一緒に死のうね」と言って私に付き添っていました。しかし、母まで私と一緒に亡くなったら弟たちがかわいそうなので「私はここで亡くなっていいから、防空壕に行ってください」とお願いし、一人で家に残っていました。だから、終戦を迎えたときは「もう逃げなくていい。家族も皆、命が助かった」と思い、本当にうれしかったです。
八月十五日が過ぎた頃だったと思います。東蟹屋町にあった倉庫に衛生兵が来ているという話を聞き、どこかから手押し車を借りて来た母が私をそこまで連れていきました。そこでは、リバノールを塗りやけどの薬を皮下注射してもらいました。娘を治したい一心だったのでしょう、田舎にいる叔母からもらったお米をお酒に換え、衛生兵たちに渡していたようです。そのお陰か、薬の無い時代に、二~三日に一回、両方の二の腕が固くなるほど何回も注射をしてもらいました。今考えてみると、母が家を空けたために私が祖母の手伝いに行き、母の身代わりとなって被爆してしまったという責任を感じていたのだと思います。
寝たきりだったときは、五体が言うことを聞かず腹が立ったこともあります。私は人に悪く当たった覚えはないのに、なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのかと憤りを覚えました。
振り返ってみて、ひとつ、母に感謝していることがあります。女の子はお茶やお花に行くときに正座をしなければいけないからと言って、やけどで固くなった足をお風呂のお湯につけながら正座の練習をさせられました。本当に痛くて涙が出るのですが、「正座ができなければあなたが恥をかくのだから」と言って無理にでも座らされていました。あのとき、もしも痛いからと言って足を曲げる練習をしていなければ、関節の所が盛り上がって、うまく座れない状態になっていたでしょう。今現在も正座ができるのは、あのときの母のお陰です。
●被爆後の生活
半年近く療養して歩けるまでに回復し、学校へは三学期から登校しました。級友たちは私が死んだものと思っていたらしく、私の顔を見て大変喜んでくれました。
学校を卒業して、霞町の旧陸軍兵器補給廠跡に入っていた県庁へ勤め始めました。しかし、母がケロイドの残る私を見て、結婚できないのではないかと心配して泣くので、二年半余り勤めたところで縁あって結婚しました。それから第三子を出産した後、昭和三十四年、三十歳のときに癌の疑いがあると診断され子宮摘出手術を受けました。
家にいて被爆した姉や一番下の弟は癌で亡くなりました。
最近こそ目立たなくなりましたが、首には丸襟の形にケロイドが残っています。一センチほど皮膚が盛り上がっており、洗顔をすると、そこに水がたまっていました。また、視線が首元に行くのが嫌で、ネックレスは着けたことがありません。
●親戚や友人の被爆状況
後になってから知ったのですが、一緒に木材を取りに出掛けていた近所の方は、家に帰られてすぐに亡くなったそうです。四歳のいとこも、被爆後の早い時期に亡くなったと聞いています。祖母は、胸の全面をやけどしケロイドになっていましたが、戦後十年ほどは生きていたと思います。
また、実践高女のクラスメートが四十五人いましたが、校長先生の配慮により郡部の工場に動員されていた関係で、直接被爆をしたのは私を含めて数人です。現在も月に一回ほど集まっていますが、直爆を受けて健在なのは私だけだと思います。爆弾が落ちる前に挨拶をしていたクラスメートも、時計店の中にいたためそのときは大きなけがはなかったそうですが、すでに亡くなっています。
被爆時に亡くなったクラスメートの一人が、山田邦子さんです。山田さんのお家は現在の八丁堀福屋本店の前でお店をしておられました。お母様がご病気で、学校に行かず家で店番をしておられました。お母様も私と山田さんの仲が良いことをご存じで、「幟町国民学校に行っている弟たちが山県郡に学童疎開していて、八月六日に私がそこに行く。うちの娘が寂しがっているので、うちに来て一緒にお留守番していただけませんか」と言ってこられました。私はたまたま家にいたので、「いいですよ」と答えました。ところが、その二、三日後にまた訪ねて来て、「山県郡に行くのは十一日に変更になった」と言ってこられました。
原爆投下後、どうしても山田さんのことが気になって知人に聞いたところ、山田さん一家は当日自宅で被爆され、お父さん、お母さん、山田さん、それと弟さんが、着の身着のままの状態で防火用水の中で亡くなっておられたそうです。その話を聞いて何日も泣きました。山県郡に疎開されていた弟さん二人は助かったそうですが、ご兄弟がその後どうなったのか、今でも心掛かりです。
●平和への思い
原爆によってお友達を何人も亡くしました。すごく良い人たちの命が奪われたことに腹が立ち、平和記念式典にも参加しませんでした。被爆から五十年たち「これではいけない。私一人でも、参加しなければ」と思い、初めて参加したのですが、涙が出て仕方がありませんでした。今は、安らかに眠って欲しいという気持ちが大きく、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に行くたび、登録されているお友達の遺影に声を掛けるようにしています。
私は原爆が落ちたときに死んでもおかしくありませんでした。こうして生かさせていただいているのだから少しでもみんなのお役に立ちたいと思い、いろいろな地域の活動に積極的に貢献してきました。また、普段から何かもめごとがあれば自分が一歩引くようにしています。その場で腹が立っても、ときがたてばお互い理解し合えるはずです。話し合いで済むものなら、お互いが譲歩して争いが起こることはありません。
私たちは戦争でとても苦労しました。だから、譲歩したとしても戦争はして欲しくありません。それだけです。戦争で一番泣くのは母親です。本当に、母親が一番泣くのです。
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