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被爆体験について 
藤原 錞子(ふじわら じゅんこ) 
性別 女性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市牛田町[現:広島市東区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 牛田国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
東京より祖父母の住む猫屋町へ四月から疎開し、七月迄本川国民学校へ通学。七月、市中心はあぶないと云うことで牛田に住む叔母の家へ。牛田国民学校へ転校し夏休みもなく畠の草取り。兵隊の居た講堂の「蚤取り」などで学校へ行く。

当日もお手玉とおべんとうを持って空襲警報が解除になったので学校へ向う。家と家の間を数歩行くと畠になる手前でラジオの情報のブザーが家の中から聞え何となく立ち止ると畠を光が走り一瞬何もわからない内に気が付くと近所の家の前で地面にふせていた。ノソノソ立ち上りまわりを見ると家々のガラスや戸などがなく、近くに肥えを運ぶ牛がたおれており人がワイワイ云って出て来ワラぶきの家が燃えていた。

ここに爆弾がおちたと思いフラフラ叔母の家へ帰えると叔母の家も少し小高い処にあったため市内に面した方からの爆風で何もなく柱と屋根があるような感じだった。その頃から被爆した人がゾロゾロ歩いてやって来叔母の家も屋根がある丈に人が入って来大変な事になったナと思った。私自身、左側の髪と首に少しヤケドをしており髪がパーマをかけたようにチリチリで首がヒリヒリした。叔父の手当てでこれはすぐなほったが頭の中が空っぽになったような日々がつづく。

蝉が羽を千切られて沢山あちこちに落ちていたのが今でもよく思い出す。

叔父とこわれた屋根なほしの為、瓦を取りに(こわれた家の)白島方面へよく夕方行き「リン」が燃えているのをよく見たが、恐いとも思わなかったのはやはり異常だったのでしょう。一〇日すぎて東京へ帰えったと思います。
  

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