私は被爆の時は専売公社タバコ工場に勤務していました。
私は親一人子一人の二人ぐらしでした。父が建物疎開に市役所の裏の(ザコバ)町といふ所いったので御幸橋行ったりかへったりした事をおぼえています。
七日に御幸橋をわたって千田町の貯金局までいきました。所々煙が出ていました。私は父を探すのが一生懸命でした。三日目に父とも会う事が出来ました。
父もまもなく死亡しました。
私はおかげでたいした怪我もなくおもうのは父の事だけでした。
被爆者健康手帳をいただく時に会社の友達といきました。
友達は爆心地から二・〇キロメートルとありますしもう一人の友達は二・三キロとなっていましたが手帳がかわって二・〇になったといっています。
私は初めから二・五キロになっています。
同じ会社で同じ仕事をしているのに避難をするのも一緒でした。係員がちがえばこうまでちがうんでしょうか。どうか此のさいにしらべてください。お願いします。
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