母
夫の応召により、私の実家へ東京より長男一郎をつれ、昭和二十年六月一日たどり着く。八月六日、母は私に代って家屋疎開奉仕に雑魚場(約一・三キロ)に向かう。私と一郎は母を見送って、自宅に戻ったところで被爆。
どれほど経ってか、母は一見誰か見さかいもつかぬ、煤けて腫れあがった顔、両腕のやけどをもたげて戻りつき、「坊は?」一郎の無事を聞いてその場にたおれる。戸板にねかせ木陰に運ぶ。朝かむって行った経木帽の焦げ端がぢりぢりの髪にからまっている。床の落ちなかった一室を片付け(近所の人に)夕方部屋の中に落ち着く。
火の手の明かりと懐中電燈を頼りに、母を看る。火傷はだんだん火ぶくれに広がり、色が変ってゆく。嘔吐もつく。「少し腫れがひいたようよ」と、自分への気休めを洩らす。が不安がつのる。夜の白むころ、母はぽつりと「いま何時ごろかのー」。庭づたいに夜通し聞こえていた隣家の娘さんのうめき声もぷっつりと途絶え、刻が止まったようだ。蚊の羽音が耳を掠める。
翌七日、昼近く旧女専の救護所へ。母の呼吸が荒くなってくる。午後二時ふっと眠ったように静かになり、十五分、息をひきとる。享年四十五歳。
祖母
あの朝、台所の窓から「くす玉のような」(祖母の表現)浮遊物を見た祖母は、その後も元気よく郊外へ買ひ出しに行っていた。
九月末ごろから体がだるいとこぼし始め、痩せ細り、髪が束ねて抜け、下痢が続いた。「ピカのせいかの」と云ひながら、昭和二十一年五月、満六十四歳で亡くなった。当時は原爆によるものとは、町医師にはわからなかった。
一郎
被爆時、満一歳十一ヶ月。死没原因、急性骨髄性白血病。被爆後、時々下痢。翌年二月、高熱(水銀柱が頂点に達す)に襲われた。昭和二十四年九月、六歳の誕生日の前後より発熱、下痢、尻の痛みを発症。外科医は「単純な肛門周囲炎」と。腫物は二つ三つと増え、発熱三十九度を上下。ホームドクターは、顔色は悪いのは蛔虫のせいと検便さる。
抜毛が目立ちはじめる。患物の切開手術。十一月熱は四十度を越すことも。胸の痛み、頭痛、吐気、歯ぐきからの出血。外科医からはこの患者から敬遠したいことを洩らされる。「神様どうぞぼくの病気を治して下さい。治ればみんなが喜んでくれます。そして、ぼくのように寝ている人もみな治して下さい。」夜半の床の中で一心に祈っている。
十一月十四日、N病院へ入院。「・・・白血病の幼若性・・・赤血球も半分以下・・・白血病」院長から告げられる。十七日「ぼくの貯金を全部お父さんに渡して」紙芝居に行かれなくなって貯めたものだった。二十四日夕刻、みかんを食べたい自分でと、ふるえる手で一房、一房筋をとりながら口へふくんだ。そして、さも満足そうに仰向けになった。そのあと容体は急変。その夜、K病院放射線科Y博士の転院治療のご見解は断念する。午後二時ごろから一郎の意識は混沌とし、「ああ、ローソクが消える・・・」「おま・・い・・り」昭和二十四年十一月二十六日、三ヶ月の不憫きわまる闘病に力尽き、初冬の暁闇に小さなむくろとなった。満六歳二ヶ月。
|