私は、広島市比治山町暁第一六七〇無線部隊に勤務中だった。昭和二十年八月六日、朝から日本晴れ。朝食が済むと、週番司令より就寝命令がでたので、兵舎の二階で床につき、うつらうつらしていると、突然、大音響大爆風で、数メートル吹き飛ばされ、助からないと観念、意識を失った。
しばらくして意識をとりもどし、顔、頭、身体をさすってみたが、どこもなんともなく、助かったと思った。自分は、隣の戦友、泉谷貞夫君を励まし、行動をともにしたが、二階は半壊し、非常綱は吹っ飛ばされて、ない。人間の歩く、すき間もない。そのうち変なにおいがする。これが毒ガスだと思い、とっさに両手で、目、鼻、口をおさえ、無我夢中で室外へ脱出した。
家や建物等は全部壊され、吹き飛ばされ、物干場の毛布は焼け燃えている。戦友、地方人たちの被服、頭、顔、身体が焼け燃えている。血が流れ、吹き出している。大火災が発生し、人々は救いを求め、「助けてくれ」と叫んでいる。広島市は焼け野原となった。私の隊の部隊長は、馬もつと共、爆風で吹き飛ばされ、馬の下敷きなった。馬の頭のかげで放射線被害は、まぬがれた。広島市は大混乱となり、まるで生き地獄となった。
私は、翌日、救護班に加わって、一番先に産業奨励館に行った。自慢の丸天井は、瞬時に崩れ落ち、ドームの骨組みだけが残っていた。それは、イバラの冠のように見え、階段は血の海。日本刀は赤く焼けただれていた(これが、のちの原爆ドームである)。これは、新型爆弾だと思った。いたるところ、人間の死体が累々と横たわっている。重傷者は数限りなく倒れている。人々を収容し、行けども、行けども、限りなく続く。
市内の収容所で、私と戦友四名で、五十名を預かり、住所、氏名を確認。重傷者に◎印をつけ、重点的に見守った。看護治療の薬は、ゴマ油とアカチンだけ。小指ほどのロウソクをかざして、重体患者の口元に耳を寄せ、息が絶えていないか確かめる。ゆらめく炎が、傷口照らすと、そこには必ず黄色いウジが、音も立てずにうごめいていた。
「兵隊さんよ」と、上半身の皮膚が炭のように真っ黒になった婦人に、呼び止められた。やけどで、ひきつった唇がわなないた。「わたしは、もう、なごうない。これは使いきらん。戦争やめて平和に皆が暮らせるよう役立ててくださんか」と。渡された布袋には、わずかな札、小銭、公債証書。婦人が、息を引取ると、私は遺言のメモと袋を上官に提出した。
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