五十数年前の遠い昔になってしまったが、やがて来る八月十五日を迎えるにあたり、広島における原子爆弾による被害の、片付けに従事した想出を記し、原爆で亡くなられた幾多の人々の霊に対し、心よりご冥福をお祈り致したい。
私は、昭和二十年八月広島県安芸郡江田島町幸ノ浦に在った、陸軍船舶練習部第十教育隊に戦局の悪化に伴う、特別攻撃隊要員として所属していた。
それは苦肉の策である、ベニヤ板製の舟艇の後部に、二百四十キロ爆雷を搭載して、夜陰に乗じて敵艦船に突入するといった、無謀に近い戦法の訓練を八月六日、広島に原子爆弾が投下される前夜も行っていた。
夕方から部隊桟橋を出港し、宮島の沖合でUターンして似島を通過、カイダイチ(当時はそう言っていた・海田の事であろう。)に停泊していた船舶を仮想敵艦船と見做し、此れに体当たり爆雷投下の訓練を実施して、朝方三時過ぎ頃帰港して就寝についた。
起床時間は通常であれば六時であるが、夜間訓練中は八時の起床で、不寝番の「起床」の連呼に起こされ、寝具を片付け洗顔を済ませて、兵舎内の床に敷いた藁布団の上に正座して、点呼に入った。
週番士官である見習士官の訓示が始まったその時、ピカッと閃光が走った、それは恰も目の前で写真のフラッシュが焚かれた様であった。その時は、ただ漠然と何かのガラスに太陽光線が反射した光だろう位にしか考えなかった。
閃光が走って暫くは何事も無く、週番士官の訓示を聞いて居たが、突然バーンと海側に面した窓ガラス(我々の兵舎は海岸に平行に建っていて、海側に窓があり、海を隔てて広島の宇品が見える位置に在った。)が割れる音と共に爆風が兵舎内に吹き込んで来た。咄嗟に私は営庭に爆弾が落ちたと判断、他の隊員もそう感じたのであろう。点呼の最中にも拘わらず、隊員はまるで蜘蛛の子を散らす様に屋外に走った。
私は反応が鈍いのか、皆の退避する後姿を見ながら、今更ジタバタしてももう遅いと感じて、兵舎内の鰻の寝床の中央を走る通路に俯せになり、両手の平で目と耳を塞ぎ、鼻を摘んで、次に起こる現象を待った。
併し乍ら、その後は何事も起こらず静寂に戻ったので、やおら起き上がり辺りを見回すと、その場に居合わせたのは、私以外にもう一人の隊員と、元の位置に立っていた週番士官の三名だけであった。
私が営庭に爆弾が落ちたのではと咄嗟に思ったのは、その当時は毎日のようにグラマンやP38戦闘機とB17爆撃機等が、呉の軍港に飛来して、我々の部隊上空を通過したため、部隊西側の山の峯に在った高射砲陣地から、盛んに砲撃していた。
そのためか「近い内に貴方がたの部隊にもお伺いする。」と言ったビラが撒かれたとの噂が、流されていたからである。
やがて退避否、逃避していた隊員がゾロゾロと兵舎に戻り、我々のとった行動に対する週番士官の小言を聞かされ、点呼を終わりガヤガヤと外に出る皆と共に兵舎を出た。連中は既に広島が空襲され炎上しているのを知っていたのであろう。皆が指差す広島は見渡す限り地上から立ち上る煙に覆われていた。
部隊から宇品港まで、約7,800mの距離と聞かされていた。誰かが「茸の様な雲が」と叫ぶ、私は何度となく見直したがどうしても其の茸状の雲を認める事が出来なかった。ただ見えるのは、灰色の煙が地上全体から大空に向かって勢い良くモクモクと立ち上る光景であった。其の壮絶な光景は未だに脳裏に焼き付いている。
その内ガスタンクに爆弾が命中したらしいと言う噂が流された。私はガスタンクにたった一発の爆弾が命中しただけで、是だけの惨状になるとは大変だとその時は思った。
何れにしても誰がこんな事言い出したのかと、今思うと流言飛語の恐ろしさをつくづく感じさせられる。
その後部隊に非常呼集が掛けられ、私達舟艇訓練中の一個船隊と、整備隊の約二百名の隊員を除く千数百名の戦隊員に、広島への救援命令が出され直ちにそれら戦隊は大発(上陸用舟艇)で広島へ向かった。
残留の我々戦隊員は夜間訓練に備え準備作業の為、舟艇を似島へ退避させ、其処で舟艇の整備を行った。
夕方部隊桟橋から宮島に向かって出港、何時もの様に宮島沖でUターン海田イチに向かった。併し乍ら、その日の広島の夜空は赤々と炎に染まり、其の明るさで可成の距離まで見通しが利き、異様な情景の中での夜間訓練となった。
演習を終わり午前三時頃帰隊、水風呂にザブンと浸かるだけのカラスの行水で寝床につき訓練の疲れからぐっすりと熟睡していた処、「非常呼集・非常呼集」と不寝番の連呼で叩き起こされた。一体何事かと訝って、昨日の広島戦災に部隊の大半が出勤していたのも忘れていた。
寝不足でボーとしていた頭は「此れから広島へ救援に出動する。」と言う声にハット蘇った。そうだ昨夜は広島全市が炎に包まれ、その明るさで夜間演習にならなかった事を思い出し、これは大変な事態になったのだと気が付き飛び起きた。それから直ちに大発で部隊を出港して宇品の陸軍桟橋から広島に上陸した。
我々の上陸は、原爆投下の翌日であったため上陸地点での混乱は無かったが、当日は阿鼻叫喚の巷と化して致そうで、先発隊の話では大勢の被災者で埋まり、水を求める人々の「兵隊さん、水ー水ー水」と言う声に急かされ水を与えると、其の場で事切れてしまった人達が多かったそうである。
宇品から約一万人近くの被災者を似島の検疫所(似島には、戦争中戦地から帰還した兵を消毒する検疫所が在った。)に輸送したそうである。
宇品港近辺には未だ民家が残っていたが、屋根瓦は魚の鱗を逆立てた様に北から南に向けて吹き寄せられ、爆風が如何に強烈であったかを伺わせるものであった。
広島の中心部に近付くに従い焼け跡は、原爆の閃光で焼き尽くされ爆風で吹き飛ばされたのか一面瓦礫と化し、その威力の凄まじさを目の当たりに、見せ付けられる思いであった。
従って、道路が瓦礫に埋まっていた為、先ず我々が行った事は、道路を捜し出し両側に瓦礫を掃き寄せて、道路復元を計る作業であった。
1、道路作業中の出来事
①道路復元作業を進めて行き、キリスト協会の様な建物跡(建物の正面入り口付近だけが崩れずに建っていた。)に来ると、その建物の向かって右前に立ち上がり水道の栓があり、其れから水が吹き出ていた。そのすぐ傍に膝を付き、両手を天に差し上げて、天に向ってお祈りを捧げるような姿の真っ黒焦げの人を見た。
それは正しく焼き鳥の様に(こんな表現をすることは誠に申し訳ないが、敢えて実感を記す。)焼け焦げた姿であった。
凄まじい原爆の灼熱に遇いさぞ地獄の苦しみであったであろう、天の神に祈りを捧げお縋りしたのであろうと思い起すも悲惨な情景であった。私達はなす術もなく其処を立ち去った。
②作業を続けていると、一人の中年男性が自転車を押しながらやって来て「兵隊さん娘を捜しに来たのだが、すまんが一緒に捜して呉れないか、娘は今朝勤めに出て災難に遭った様だ、勤めていた事務所が此処ら辺だと思うので掘ってみてほしい。」とのことで指差す瓦礫の箇所を掘り起こしていると、焼け焦げたアルミの弁当箱が出てきたので、蓋を開けると、黒焦げに焼けた米の真ん中辺りに一粒の梅干しの様な物があった。男性はそれを見て「娘は今朝日の丸弁当を持って出た、確かにこの弁当が娘の物だと思う。」と言う事で、弁当が出てきた辺りを捜していると、人間の首から下の胴体と覚しき焼け焦げた肉塊が出てきた。男性は「これは娘に間違えない。」と言って、乗ってきた自転車の荷台に紐で括り付け、お世話になりましたと帰って行った。
我々は黒焦げの肉塊が出てきた時は、戸惑いそれを手にする事が出来なかったが、その男性は躊躇することなく手にした事を思うと、肉親の情愛の深さを見に染みて感じた次第である。
③それから暫らくすると、白衣の病人服を着た老人が長い棒を杖に、フラリ・フラリと我々の傍に遣ってきて話し掛けてきた。その老人の話では入院していた病院が押し潰され、偶々病室が二階であったため、やっとの思いで這い出し助かったとの事である。この事態はどうした事だろうと尋ねてきたが、我々には何とも応えようがなかった。
2、8月7日の夜の出来事
夕方になり作業を終了して、その夜は広島市の中心街に在った福屋百貨店横隣の(現在の中区立町だろうか?)軍人会館二階に宿泊する事となる。
①軍人会館に着いた頃は既に日が暮れており、遅い夕食を取って明日に備えて就寝することになり、その前に不寝番を決めるため班長が整列を号令したが、誰も皆昼間の疲れで、マグロの様にコンクリートの床に横たわり応じなかった。業を煮やした班長の「起床」の号令で起こされ、「貴様達は弛んでいる」と、全員対抗ビンタを命じられる始末であった。
②私は深夜二時頃の不寝番となる、熟睡していると時刻が来て起こされ、不寝番の前任者から、「階下には死体があるので注意するように」と申し送りがあった。
二人づつの不寝番であったが、何とも言えない不気味な雰囲気で、階下に降りて行く気になれず、二階だけで見守る事とした。
建物の開口部はガラスが吹き飛んで窓枠も無く、大きくパックリ開いて、其処から見渡す光景は、正しく地獄絵図そのものであった。
見渡す限りの広さに展開する情景は、至る所に火の手が見られ、また点々と赤や青・緑・黄色と云った、全くこの世のものと思えない、数多くの霊魂が彷徨って居るような、幽鬼迫る光景であった。
3、8月8日の出来事
一時間の不寝番を終わり後任に引継ぎ就寝、「起床」の声に飛び起き、原爆投下後の三日目の朝を迎えた、「今日は昨日と違って、凄い処だから覚悟しろ。」と戦隊長に言われ現地に向かった。
①其処は天神町(現在の広島地図には見当らない。)その当時はそう云ったが、現在の平和記念公園内ではなかったかと思う。其処では原爆投下時に、市内の女学生徒約六百名が勤労奉仕の為、集合していたところを、原爆によって全滅したそうだ。
遺体を葬る際に気が付いた事は、その地域は現場の残骸から推定して、お寺か何か大きな木造建築物の多い処であった様で、建物の柱と覚しき太い角材が各所に残っていた。
②六百名の生徒が全滅したとの事、其処には至る所に遺体があり、その総てが目は大きく飛び出さんばかりに見開き、体は赤く焼け爛れ、ブクブクに腫れ上がっていて、とても手で触れられる状態ではなく、我々は遺体収容に長い竹竿を用いて、遺体の上部と下部に差し入れ、遺体を転がし担架に乗せるといった方法で収容した。
③一個分隊6・7名が竹竿で遺体を担架に収容する者、担架を担ぐ者、遺体を茶毘に付す為の準備をする者と、役割を交替で行った。何故交替で行なったかと言うと、担架の前を担ぐ者には、凄まじい遺体は見えぬが、後を担ぐ者には、歩く度に担架の揺れで、遺体の目・鼻・口から、体液が滲み出ると云った、正面に目も当てられない状態で、顔を背けながらの作業であったからである。
④遺体を収容するなかで、女性の先生らしい人を担架に乗せようとした時、腹が裂けて内臓が飛び出し、地面一杯に拡がるといった事があった。
また、原爆で圧し潰された防空壕から、三人の女学生の頭だけが出ている現場に出会い、引き出す訳にもいかず、周りを掘り越こして収容する事とし、掘っていると、その内の一人の頭が、首の所からコロリと転がり落ちた。
また、防火用水槽の中に上向きになり、胴体だけが水槽に浸かり、顔と手足を外に出して、天を仰ぐ様な姿で、五月節句の金時の人形の如く、赤く焼け爛れた女学生が居た。それは小さな水槽であったが、灼熱の暑さから逃れる為であったのだろうと推察される。水槽の中は体液で充満していたため、抱え出す訳にもいかず、コンクリートを鶴嘴で叩き割り、排水して収容した。
⑤巡視に来た戦隊長は、我々の収容作業を見て「貴様達は何たる事をするのだ、犠牲者である同胞の遺体だ丁重に取り扱え。」と叱責されたが、遺体は手で扱う様な状態ではなかった。私達の周りには幾組もの作業班が火葬を行なっていて、皆同じ思いであったであろうか、誠に慚愧に堪えない事である。
⑥そんな作業の繰り返しで、十体位集まると、辺りから集めた焼け残りの角材で櫓を作り、一段に二・三体乗せ、三段に積み上げ、中に木切れを入れ重油をかけ、遺体に対し敬礼をして点火した。
火は燃え上がると忽ち火柱となり、瞬く間に櫓は焼け崩れ、遺体は地上に落下して火が納まる頃には、頭蓋骨がハツキリと残る状態で一ヶ所に集まっていた。こうして茶毘に付した遺体は、我々の班で約五十数体であった。
⑦我々が遺体収容をしている時、警察官が来て氏名の判明する者については、手帳に記入して行った。戦時中は上着の胸に、自己の氏名を記した名札をしていたが、遺体の殆どが原爆の閃光で瞬間に焼けたのか、裸体に近い者が多く姓名の判明するものは少なかった。
また、民間の人達が親族を捜しているのか、各作業班を訪ねて来て、収容した中にその親族らしい遺体を見つけると、我々が茶毘に付した後、一つに混じった遺骨の中から骨を拾い、持ち帰る人達もいた。
⑧その夜は、原爆ドームかその近くにあった、赤煉瓦の大きな建物(帰隊時に見たその建物は、入り口周辺に一面尋ね人の貼り紙が貼られていた。)の廊下で、一夜を過ごす事となった。
鉄兜を被った儘寝ようとしたが具合が悪く、枕代わりになる物を探しに、戦友と行く事となり、未だ炎で明るい瓦礫の中を、飛び跳ねる様に走った。それは未だ遺体が瓦礫の中に見掛けられた為で、それを踏まぬ様に、下を見ながら走ったのである。
長さ3m位の角材を見付け、二人で担いで帰り、それを五・六人で枕代わりにして寝た。原爆が投下されて既に三日目の夜であったが、其処彼処で赤い火・青い火が燃えていて、恰も幽界を見る思いであった。
4、8月9日
この日の行動はよく思い出せないが、或る防空壕の入口で、男性が目を大きく見開き、(飛び出していると云った方が適切かも知れない。)裸同然身体全体が水腫れの様に、腫れ上がって居るのを見たり、川沿いを歩いていると、多くの遺体が流れていること等を見た事である。
また、雨が僅かであるが、パラパラと降ったのはこの日であったのか、記憶が定かではないが、この時分には原爆の事を特殊爆弾と言い、75年は草木も生えないと言われた。
出戦日の迫っている我々は、一足早く帰隊する事にになり、この日は、広島文理大学の校舎だと言う所に宿泊した。
5、8月10日
帰隊するため宇品に帰って来たが、民家の南北にある開口部の雨戸やガラス窓は、爆風で吹き飛ばされ筒抜けになっていた。
また、陸軍桟橋近くの船会社等は、机や書棚が北側(海岸側)に吹き寄せられていて、爆風の凄まじさを見せ付けられた。
以上、四日程の体験記であり、五十数年経った現在、記事中に記憶違いなどが有るかも知れないが、私が見た広島の被爆現場の状況で、明後日に迫った、八月六日の広島平和記念日を迎えるに当たって、改めて原爆被災者の、ご冥福をお祈り申し上げると共に、二度と此の様な悲惨時が起きないことを祈念して、記録に残す事とした。
後記
平成六年八月六日五十回忌追討式に、広島在住の、今は亡き高野昭二兄及び生存者の田原九八両兄の、お世話になって参列して、また、江田島幸ノ浦の旧部隊跡に建立された[海上挺進戦隊戦没者慰霊碑]を訪れ、冥福を祈る事が出来、心より深く感謝している。
平成13年8月4日記述
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