昭和二〇年八月六日午前八時一五分、江波町広島三菱造船の敷地内で被爆。爆風で五メートル飛んだが、外傷なし。各建物の窓ガラスは全て破損しました。キノコ雲を目の前で見る。
中食の後、当時修道中学の学生でしたが、先生から、各自、自宅へ帰り、明朝千田町の修道中学校舎へ集合と云はれ、私は友人の村上君と一緒に市内へ入りました。舟入橋が、渡れないとの情報で、学生一〇人位で、渡し舟を探し出し、対岸の吉島へ渡りました。当時燃料倉庫があり、大火災で燃えていました。吉島を上り、加古町の大伯父井口家へ廻って見たがまだ火の手が強く行けない。万代橋を渡り、鷹の橋の交叉点へ出ると、ロータリーの辺りに二〇人位大ヤケドの人が倒れて、虫の息で「水を下さい、水を呑ませて・・・」とうめいている。逃げる様に市役所の前へ行くと、鉄骨だけになった市電の中へ一〇人位の人々が真黒く、男、女も別らず、死んでいる。市役所大玄関前にもサンマの黒焼の様に一人死んでいましたが、赤茶色の靴のみ、新品の様に光っていたのを不思議に思いました。
紙屋町へ行く迄に、今の日銀前にも一台黒コゲの電車あり。二〇〇メートルおきにある防火水槽(セメント造り)の中へは、五~六人が頭をつっこんだまま、丸焼けになり真黒な死体が重っていました。
紙屋町の電車通りをさけて、護国神社の前の広場を抜け、水道管の破れて吹き出している水を呑みました。(その夜から下痢)。相生橋を渡ったのが午後三時頃、ランカンは全て倒れて無く、橋の中央に黒コゲになった兵隊さんと、大きな軍馬が横倒しになっていました。衛生兵らしい人が、グリースの缶を持って橋を渡って来ました。
私は当時三篠北町の親類に下宿していたので、十日市から横川を通り(未だ各所で火災あり)、三篠の金沢家に帰りました。(少し家が傾いていましたが無事)。当時二中に通っていた二男が多分全員全滅とかで、親、兄が大騒ぎをしていました。
私は三次の親の所へ(疎開先)へ帰ると伝えて、村上君(加計の実家)と一緒にトボトボと北を目射して歩きました。緑井迄来ると夜になり、暗く、腹も空いて動けなくなり、大きな農家に入り助けを乞いました。お婆さん一人でしたが、親切に夕食を喰べさせた上、一泊させて貰いました。
翌朝、矢口まで芸備線が折返し運転をしているとの事、村上君は可部線へ乗る為、別れて私は三次へ向いました。矢口のプラットホームは、焼けただれて丸裸に近い男女が数十人汽車を待ち。地獄の様な車中でした。三次へ帰宅後、一週間下痢が止りませんでしたが、他の異状はなし。成人になっての調査、精子が殆ど死んでいる(子供なし)。八月一六日頃広島市へ行き加古町の伯父と会い、三篠の下宿先の荷物を引き揚げました。その後三次中学へ転入学しました。
|