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被爆について思うこと…幼子の被爆体験おぼろげ記憶 
新見 博三(にいみ ひろそう) 
性別 男性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
あの体験は、眼を患い治療のため日赤病院へ母に連れられ家を出る直前のことであった。六歳の幼子には、突然何が起きたのかを理解することは当然不可能であった。その直後の記憶は確実に途絶えている。どれほど時間が経過していたのか、何故見知らぬ乳呑児を抱きかかえ御幸橋を渡り宇品方面へ歩いたのかは計り知れないが、神田神社にたどりつき、乳呑児を軍人が取り上げ、死者の山へ横たえた後、私の頭部打撲と裂傷・倒壊した家屋の古板についた古釘を足に踏み抜いたまま歩き続けた傷の簡単な治療をうけたように思う。

父は母は?自分の現実は?何も意識になかったのだろうか?多分二~三日位後のことだろう。軍人から名前や親の名前・住所等を聞かれた記憶がある。そのような場面を通じ、次第に「父母に会いたい!」「家はどうなっているのか?」等幼子の極めて自然な感情が回復してきたように記憶している。しかし、乳呑児が誰であるかはいまだ解らない。

母とはそれから二~三日後、偶然千田国民学校正門付近で再会でき、子供心に表現のしようのない安堵を覚えたことを鮮明に記憶している。多分人生で最も悦びに満ちた場面であるし、終生忘れることはあり得ない。そして出張していた父とも疎開していた兄達とも会え、跡形もない自宅跡へ、家族で廃材やトタンを集め雨風を防ぐ小さなバラックを作り、展望のない日々の営みを始めたことが、おぼろげながら脳裏にある。

幼子が、被爆後生死をさまよった一~二か月間の極限状況の記憶は若干にせよあるが、何故かその後「生」への確信を得た段階の日々の記憶が少ない。それは人間の心理形成の必然だろうか。

いわゆる復興の過程で、必死に生きる人々の様と我が家族のそれは同様であり、例えば食料の調達では、日々母に手をひかれ、片道約五キロメートル先の己斐まで歩いて「ぬか団子」をもらいに行き、一人二個ずつ配給のため行列に繰り返し列び、家族五人分を確保し家路についたこともまた、終生忘れられないだろう。

あれから六〇年。幼子の被爆体験おぼろげな記憶も、時間の経過と共に風化が益々進む。人生は偶然性の連続であろう。被爆は被爆者にとり全く偶然の事件である。

被爆の実相を現在及び後世に正確に伝承することの重要性を、被爆者個々はもとより、とりわけヒロシマの行政もマスコミも真摯に認識し、具体的かつ実効性のある施策を確立する責務があろう。

(備考)文中の神田神社は、被爆後かなり経過し、母親に体験談を話した際、教えてもらったものである。
  

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