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体験記を読む
被爆について思うこと 
橋本 邦彦(はしもと くにひこ) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島市皆実町三丁目[現:広島市南区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市第三国民学校 高等科2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一、別紙にまとめてみました。
まとめることがむつかしい、書き残したいことは多い、が端折(はしょ)るしかありません。長くなるのでその夜のことで、打切りました。

二、書いていませんが、九日に市中を通って大竹へ避難した時の体験、クラスのこと家族のその後など書きたいことは多いのです。常々、一度まとめておきたいと思って来ましたが、実現していません。文章表現やとりまとめ方、発表方法などに自信がないのですが、アドバイスやサポートをいただけるところ(個人、グループ、係)はないでしょうか。お教えください。

○その時私は一三才。第三国民学校(高等科)二年生だった。二年といっても名ばかりで、学校での授業は行なわれなかった。初等科を除き四月一日から授業は全国的に停止され、その代りに主要官庁や軍需工場などへの学徒動員や、建物疎開、農水産などへの勤労奉仕などへ、クラス毎に割振られ、先生と共に毎日通っていたのである。

○八月六日(月)は、私達の工場は休みだったので、その朝は自宅に居て被爆した。(私たち二年生男子は、前日の五日(日)に、雑魚場(ざこば)町(市役所裏)へ建物疎開の勤労奉仕に行っている)

○わが家は皆実町三丁目(当時)。比治山下線の専売局前電停から露地を少し入った処にあった。平屋建ての二軒長屋だった。周りには同じような小さな家が接しており、露地は狭かった。爆心地から二、五〇〇メートル、地上からの高度は六〇〇メートルの爆心で炸裂し、猛烈な衝撃波は四方八方に飛び散り遮る物が無ければそのひとかたまりが一直線にわが家を襲ったのかも知れない。北向きのわが家のガラス戸の玄関や窓、中の障子やふすまなどは苦もなく吹き飛ばしてしまった。屋根の一部は大きく穴が開き、空が見える。その下の座敷は瓦や土塊、タルキ木片が落ち、倒れかかっていた。座敷の東側の壁は落ちて隣家が見える。

○(爆発前に話を戻す)あの時私は裏庭に面した縁側から座敷に入った時だった。部屋の中は真暗で何も見えなかった。次の瞬間青白い光が差込んで、部屋の一部を切りとったように照した。私はとっさに座敷に伏せた。当時言い聞かされたとうりしたのだが、耳を押え、堅く眼をつむって体を固くしていたに違いない。その後に来たドーンという音や衝撃、建物の壊れる音など一切聞いていない。覚えていない。

○どのくらい経ったかわからないが、気がついてそっと目を開くと、闇が徐々にうすれていく時で埃がキラキラと舞降りていくのが見えた。やがて明るくなり、あたりを見回して驚いた。私の伏せた横のあたりには落ちて来た瓦やがれきでうず高く盛り上っており、他の部屋も天井が落ち、柱やタルキが垂れ下っていて散々なこわれようだった。運の悪いことに家の前に大型爆弾が落ちたと思った。火は見えない。そろそろと起き上ってみたが、どこも痛くない。助かったと思う。(実は、全くの無傷ではなかった。右側頭部(耳の上)、右頬、右足首の三ヶ所にガラスの破片が飛来し突き刺さっていた。その時、痛みを感じなかったのである)

○私は家に一人で居た。自分の無事が確められると母達の安否が気になった。母は少し前に弟を連れてご近所を訪問している筈だった。外に出ようとするが隣りとの間は通れそうにない。玄関から出れるだろうかと不安ながらも向う。またいだり、くぐり抜け用心しながら外に出る。土間はガラスが散乱し、危い。玄関の支柱の一つは半分折れて上の部分はぶらぶらしていた。お隣りに支えられている。

○外に出て二度びっくりする。見渡すご近所のどの家もわが家と同じような被害に見える。倒れた家は見えなかったが、窓は抜け、どの建物も全体が白っぽく見えた。火や煙は出ていない。人の叫び声や、はっきりした声も聞えない。もっともあの時、この建て混んだあの一帯で何人の人が家にいただろうか。小学生は学童疎開や、病人や幼児、産婦などは縁故疎開させ、勤め人や動員学徒は職場へ行き、勤労奉仕で市中の建物疎開に刈り出された人々は、サマータイムですでに働き始めている筈だったから。

○家の前で母を呼ぶと、すぐ返事があり、二~三軒奥から裏木戸が開いて母と弟四才が出て来た。軒下に居たそうで、母は落ちて来た瓦で頭や肩をケガをしていた。弟は母がかばったのか無事だった。母は私を見るとすぐ「病院へ行こう」と言った。ガラスが刺さって血が流れていたからである。露地を出る時私がはだしなのを見て引返して下駄を取って来てくれた。それまでよく怪我をしなかったものである。露地といわず道はどこも瓦やヘギ、木の葉や小枝、ガレキが散乱していた。又、母は家からオキシフル(消毒液)を取って来てくれ、それをかけながら私のガラスを抜いてくれた。血はそれ以上出なかったし抜く時も痛くはなかった。

○陸軍共済(わが家から約一キロメートル南)へ行くこととして、電車道へ出たが、少し前に出た姉の姿は見当らなかった。近くには電車も見えず、人の姿も多くはなかった。来た電車にすぐ乗って中心部の方に向っていたのだろうかと母と話しながら心配は消えなかった。

○病院へは行ったが、すでに入口までまっ黒になった重傷者で一杯で、私たちのような軽傷の手当はいつになるかわからないと自ら納得して、治療を受けるのをあきらめ、引返えした。

○家の近くまで帰ると「専売から火が出た。こちらへもすぐ燃え広がるぞ」と出会った人達が言っているのを聞いて、私たちもその足で避難することとした。私達三人は東南に向けて街中を抜け、住宅地から離れた畑の中に何本かの木がバラバラと植っている処を見つけた。私が弟を見ていると母は家との間を往復して、手押車の小さいのに、ゴザ、蚊帳、夏ぶとん、毛布、食事道具など、最小限必要なものを運んで来た。蚊帳を各木々に渡して吊り中に入ると、ようやく落着き安心する。やがて何組かの家族が囲りや近くの畑の中に野宿を決められた。当時は被服廠、旭町方面、第三国民学校のある南の方に向けて畑、蓮田などが広がっていた。現在はびっしりと住宅が建っており野宿した処がどこか判らなくなった。幸い専売の火災は比治山下線より東側には燃え広がらなかった。

○専売局前交叉点付近でおにぎりを配っていると聞いて貰ってくる。又、人から被服廠の入口で傷の手当をしてくれると聞いて、母と交代で治療を受けに行く。入口のところで机を二つ出し、三人の人が待機していた。手当といっても赤チンを塗ってくれただけだった。後から聞いたが、その倉庫のような赤レンガの建物の中には重傷者が並んで寝かされていたそうである。

○爆発後市中に火災が起き、広がっていることは判っていた。続々と御幸橋を渡って逃れてくる人は続いた。比治山線(勿論、電車は動いていない)を歩いて北上する人達も多い。いつ頃からか専売局交叉点あたりに空のトラックを止め、次々と辿り着いた重傷者を乗せ一杯になると宇品方面へ走り去り、次の車と交代していた。又、その近くでは道端に小さな机と椅子を出して一人の警官が罹災証明を書いて交付していた。囲りを四~五人の人が順番を待って取り囲んでいた。

○私の家族は父、母、姉、私と弟達の四人の八人家族だった。小六、小三の弟二人は学校からまとまって学童疎開し、山県郡大朝町に集団疎開していたし、小一の弟は大竹市の山奥に親類を頼って縁故疎開していた。実は、母と姉、四才の弟は、その疎開先から広島へたまたまやって来ていたのである。あの頃は母は実に多忙だった。疎開先でのんびりとはできなかった。広島のわが家と大竹の疎開先の世話のほかに、町内から各家庭に強制的に割り振られた建物疎開の勤労奉仕にも加わらなければならなかった。(八月五日鶴見橋付近に行っている)し、小学校からは集団疎開先の風呂が壊れたからその修理に、また疎開先の子供達が淋しがっているから慰問するようにと通知が来たので行くこととして、出て来ていたのである。

○姉は女学生だったが、学徒動員で上流川町の自校内の作業場で働いていた。母と交代して広島の自宅と大竹を行き来していた。姉は広い道路を歩いていて被爆し、首筋と両手をヤケドし、ガラスの破片で指にキズをしていた。近くに居た人達と一緒に逃げ、皆実小のグランド、黄金山へと逃がれたが、途中手当をして貰ったそうである。午後、ちょうど母が何か取りに家に帰っていた時に戻ったそうだ。

○父は市内電車の運転手だった。始発電車に乗り、江波の終点(当時)で降りていて被爆。ひと息入れている時に正面から熱線を浴び、首、胸、両手をヤケドした。だがそのまま職場を離れず市中から逃れて来る被災者の群れに近くの病院を教えたり、道案内をしたりしていたとのことである。午後になって自分も手当てを受け、夕方の干潮を利用し、三つの川を歩いて渡って帰って来たと言う。ご近所で教えられて野宿先までやって来たのは、もう暗くなっていた。ヤケドには白い薬が塗られ肱を曲げ手を支えた姿の父を見たときは、本当に胸がつぶれるようだった。父はその晩から熱を出し、寝ついてしまった。母が何かと看病したが、これといった薬がある筈もなく、心配だったろうと思う。

○その夜の野宿は忘れられない。私は蚊帳の隅の方に坐り外を眺めている。後ろには、父と姉(姉もその晩熱が出た)が寝ており、母は時々起きては看病している。お隣りにも重傷の方が寝ておられるらしく、時折りうめき声や、何か訴えられる声など聞える。夜に入って市中の火災は勢いを増していくようである。市中はまるでるつぼのようである。火は京橋川の対岸まで迫り、その火災はごうごうと中空を乱舞している。私達が避難している所からは、皆実町三丁目の家並み(対岸からは三〇〇メートルは離れている)が黒いシルエットのように見えるが、それを呑み込まんばかりに舌を伸ばしているように見えたりする。もしも大事になってはいけないので眠らないように戒めながら眺めていた。更けるに連れて火災の幅は広くなり、徐々に右手の方(比治山、駅方面)に広がっているようであった。市中は一大火葬場になった。建物疎開に出掛けた人達は無事だったろうか。知っている方々は皆、ご無事だろうかと思いは尽きることはない。

○ふと動物を焼くいやな匂いがする。見渡すと右手には黒々と大きな建物、被服廠があり、その南の旭町に続く畑の中に、ボーと小さな火が見えた。南の方、宇品に近いあたりにも一~二ヶ所見えた。あれは被災で亡くなった人を身内や近所の人達によりだびにふしているのだと判った。あの時は市中ではしばらく後までよく見られた。よく帰ってくれたと思ったが、その晩に或いは翌日にと死ぬ人が多かった。外見では元気そうに見えた人も亡くなった。社会機能がこわれた中では自分たちでするしかなかったのだ。野原、畑の隅、運動場、川土手などで焼かれていた。気の滅入るような一夜だった。私たちは余りに多くの地獄絵を見たものである。それから続く厳しい生活・・・・・情けない話だが、この諸々が又くりかえされようとしている。人々の認識も、政府の態度も、世界全体の荒れ様も変っているとは思えないからである。
  

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