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被爆体験について 
小高 美代子(こだか みよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市猿猴橋町[現:広島市南区猿猴橋町] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は唯今七一才でございます。
 
五年位前から夏になると語り部としてあっちこっちで皆様に当時の話をさせて頂くのが義務だと思い動いております。被爆当時妊娠五ケ月でした。広島駅前猿猴橋町の家のお勝手でお米をといでいた八時一五分……いなづまの何千倍かという様な光に見舞われ「ナニ?」と思ったとこまで意識にありますがその後は何もわからない。従って原爆の事をピカドンといわれますが私はピカしか……ドンの音はきいていないのです。
 
それから何分たったのか何時間たったのか今でもわかりませんが真くら暗のトンネルの中を死にたくないと絶叫して歩く(臨死体験)自分をハッキリ覚えています。
 
暫くして前方に目もあけていられない程のオレンジ色の光をみました。アッ仏様の御光だと思うと同時に母の姿をみて助けて頂いたと思いました。
 
気がついてみるとお勝手の土間にたっていたのに下駄をはいたまゝの姿でお隣の時計屋さんの屋上(三階ですがこわれているので二階程の高さでした)にたっていました。
 
助かったんだと思うと同時に私一人助かっては生きられないと身内(家は完全にこわれて下敷になっていた)を助け出すことに専念するため外へ救いを求めるべくとび出しました。原爆などとは全然しりませんので我が家が直撃をうけたと思ったのです。
 
ところがこれがまさしく生き地獄。来る人来る人焼けたゞれ男・女子供の差もないほどのみじめさで手をひろげてぶらりとさせて……五〇年たった今この文をかいていてもたまらなくなる程の状況でした。
 
何とか身内を三人助け出し東練兵場を通って中山村の農家へまいりました。
 
その途中黒い雨がふって来ました。丁度コールタールをうすめた様なものでした。
 
まだまだ沢山の事がございますが思いおこすことだけでも苦しくつらくなります。
 
私は今お腹にいた娘もまもなく五〇才になります。子宮癌で三年前に摘出しましたが命はあります。なくなられた沢山の方々の御冥福を祈りつゝこの辺で止めさせて頂きます。有難うございました。
 
戦争だけは絶対にしないで下さい。

【小高美代子さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】 

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