私は九歳になる兄と勉強に行っていたお寺で被爆した。すごい光を感じて本堂から外に出た。もうもうと土けむりの上るすぐ目の前に大きなきの子雲が見えた。兄が私をつれて素足のままで走った。後から火がおっかけてくる。建物の下敷になって助けを呼んでいる人を見ても九才と七才の私達はその上を走って逃げた。柱だけの私の家の前で母と一一才の兄、四才の妹は無事に帰った二人を見て泣いた。私はジョーゼットの花もようのワンピースを着ていたが肩から胸まで真っ赤についた血がカチカチになっているのに気がついた。右の耳から口まで切れていた。母は軍医の所え走った。手当と云っても麻酔もなく手術もできずただリバガーゼをつめるだけで傷口の肉が上ってくるまで何度も痛い目をする事になる。その夜は大州の方にあるブドウ畑の下で野宿をする。
父は流川にある同盟通信社で速記の仕事をしていた。母は妹がはぐれないように背におぶって私達をつれて父を捜した。新町まできた所で軒下に戸板の上にうつ伏の座っているような父を見つけた。ゆすってみた頭の下に血がかたまっていた。背広のポケットもズボンのポケットにもなんにも入ってなかった。母は子供を安全な所に置いて又もどってくるからと人に頼んで二度目にきた時は父は皆と一緒に何処かえ持って行かれてしまった。母は私の傷の手当、ピンポン玉くらいのジャガイモをもらってくるのに大変、男の人達に皆んな取られて若い母はいつも後まわしでもらえない日もある。そんな日は母は一日中口にする物はないけど一週間も父を捜して歩いた。台風で大雨が降り私は風邪から腎炎になって二倍くらいにハレてしまった。熊笹の根っ子がいいと母は捜し歩いた。傷口もハレも少しましになったので皆と一緒に軍のトラックで鈴張村と云う所え行った。お寺の本堂には全身水ぶくれの人やウジやハエがとまって死にそうな人がたくさんいた。すごい臭いがした。私は一日中食べる物がなくても傷が痛くても母の為に我慢した。書きたい事は山ほどありますが涙が出てくるので書けない。五〇年がすぎて私には慢性腎炎と右頬に大きな傷が今も残っている。母は一〇年前に父の所え行ってしまった。一人残った私にもっとゆっくりしておいでといい残して。 |