広島に原爆が投下されたあの運命の八月六日、前日より父が、姉妹三人で住んでいた社宅(父の勤務先の)へ出張先の可部の奥から帰って来ていて早朝より庭先の防空壕内の荷物の整理をしていた。大音響と強い衝撃に目も眩み、一瞬爆弾の直撃を受けたと思った。父子三人は奇跡的に助っていた。
姉一人が勤めに出ていて行方不明となり、瓦礫と化した町、猛火に追われながら、三人で捜しても、見つける事ができず、後髪を引かれる思いで一番下の妹と母の疎開している可部の奥へと逃げました。夜が明けるのを待たず、姉の行方を尋ねて、隈なく負傷者の収容先を捜し歩いた結果、見つからなかった。ひどい火膨れで、苦しい息の下で水を求めている。次の瞬間、もう振り返ると命が切れていて、本当にやり場のない悲しさと悔しさで心底戦争を恨んだ。こうして姉の行方は分らず一週間を経過してやっと、姉の消息が分った。家の下敷きになり全身打撲と、体中にガラスの破片を浴びて、無残な姿で運ばれて帰って来た。小さな教会に収容されていたのだ。幸運にも顔には大した傷もなくて安心した。でも姉の容体はどんどん悪くなり家族みんな必死に看病していた。ところが母と私(当時女子商四年生)が相次いで高熱と強い下痢で、病床についてしまった。父も妹二人も高熱や下痢に苦しみながらに、三人の介護に尽してくれたが、もう絶望的な状態で、とても助る命ではなかったと後に聞いている。そのうち頭髪が抜け落ち、目、耳まで、不自由になり、とうとう一ケ月余り意識が無くなっていた私が、異様な臭気で、気がつき、この臭いに悩まされていた。ふと気づくと隣で寝ている姉の顔にリバノールのガーゼを当てゝ包帯をぐるぐる巻いている父の姿を目にして不審に思った。帰って来た時の姉は、顔に余り傷が無かった筈。次に包帯を替える時、その顔を目にした私は愕然として息を呑んだ。優しい姉の顔は変貌してしまって丸で骸骨の形相になっていた。悪夢の様で信じられない。…でも現実に、右目の下から頬、唇、顎に至るまで、皮膚が崩れて無くなり、唇の無い口から歯がむき出しになっている。その口から唾液が流れ出て頬かむりに巻いた包帯から水滴が絶えずポタポタと落ちていた。ふくよかな顔が半分位に小さくなり、凄惨な顔になった姉が怖いのと、ふびんで、二度と正視できなかった。この姉は、助けられて三滝の竹やぶへ逃げのびていた。でも直後降ったあの不気味な黒い雨に打たれ、しかもその雨水を鉄かぶとに入れて、兵隊さんが飲ませてくれたのです。負傷者の誰もが水を欲しがり、その雨水があの恐しい放射能で汚染されている雨水だと予知できる筈がなかったのだ。母も私も半年以上、病と戦ってやっと歩ける様になったが、姉は岡山へ帰ってから、大阪の大学病院で三年間入院して、むつかしい整形手術を繰返し行ったのに、完治できず、五一才で亡くなるまで人々の好奇の目にさらされ、食事も人前でとれず、世の中の片隅で隠れる様に戦後を生きたのです。最後はやはり原爆症だったと思います。原爆は火傷ばかりか、姉の場合、口の中から化膿が始り、一、二ケ月後には、皮膚がとける様にくさり、骨や歯迄溶かした如く、はづれて無くなったのです。私は声を大にして叫びたい。この無差別的原爆の残虐性を全世界に向けて訴え続ける事こそ、私達被爆者の使命だと思っています。二度と被爆者を作らない平和な時代を待つ。
私達姉妹四人は、姉二〇才 私一六才 次妹一四才 四番目小学校二年生の時、被爆したのです。父と上から姉妹三人は、横川町一丁目の父の社宅に住み、父は、母と末の妹を自分の出張先の可部の奥へ疎開させていました。父と母は可部の奥と横川を行ったり来たりの生活でした。
ところが被爆者手帳は証明書があった四人はすぐ貰い、母は少しおくれて貰ったのです。当時被爆者は、隠れる様に生活していたので末の妹だけは手帳を申請しなかったのですが、この妹は、幼くして、三人ものひどい重病人がせまい部屋へ寝たきりになっている所で一緒に生活して看病も手伝ってくれたのです。この妹は、大きくなるにつれて、ひどい貧血で倒れるばかりしていました。やがて学校も出て、結婚しましたが被爆者ではないと言って結婚したのです。
結婚したと同時に病に倒れ入院、益々被爆者ではと、疑られていました。子供は男ばかり二人生みましたが、二人共弱くて入院を繰り返したのです。(成人して元気になっています。)
この妹は、今でも絶対に、自分は手帳を貰わない、と言い、弱い弱いとずっと言われてきて、今現在、ひどい糖尿病に苦しみながら現在も働いています。(腰骨の大手術も受けていて五九才で腰が曲っています。)この妹は、孫、子、の末迄被爆者だと知ると、結婚がむつかしいと今でも思っています。幾ら私が話してやっても聞いてくれません。せめて手帳を貰ってくれると、これから先入院しても助るのにと思っていますが。現在でもこの様な考へをしているかと思うと、ふびんやら、情けないやらで、私一人がなやんでいます。今でもこんな考への人がいる事を知って頂きたくて、書きました。 |